ルシフェルはカナンの神か

 Wikipedia「ルシファー」の項目を久々に眺めに行くと、ようやくカナン神話のシャヘルにまつわる記述が消えていた。
 キリスト教において伝統的にサタンの天使名とされてきたルシファーの原型が、カナン神話のシャヘルだという妄説奇妙な説については、Googleなどの検索エンジンで、「ルシファー シャヘル」のワードで検索をかけるといくらでも引っかかるので、そちらを参照していただきたい。
 それなりに聖書学、キリスト教史に詳しい人ならば「何じゃそりゃあ」と目をムきそうなこの話は、ほぼそのままバーバラ・ウォーカーの『神話・伝承事典』(邦訳は大修館書店から。原題"The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets"に忠実な日本語タイトルを付けてくれさえすれば、これだけの人間が惑わされることはなかったろうに!)から引っ張ってこられたものだ。
 さて、今日、ウガリット神話(カナン神話)として知られる物語は、シリアのラス・シャムラから発掘された銘文にその多くを拠っている。問題の「シャヘル」という名前は、最高神が海辺の女性たち(人間なのか、神なのかもわからない)にシャレム(黄昏)とシャヘル(暁)を産ませたという内容の、「恵み深く美しい神々」と題された短い物語に登場する。以上、終了。これだけである。バーバラ・ウォーカーが主張している、シャヘルの追放神話などウガリット神話のどこを引っくり返しても出てきやしないのだ。(なお、シャレムとシャヘルを双子と考える方々も多いようだが、複数形の「女性たち」に産ませたとあるからには、異母兄弟と解釈するのが適当だろう)
 なお、バーバラ・ウォーカーは、「ルシファー」という名前が捻り出される典拠となった旧約聖書の「イザヤ書」における「どうしてお前は天から落ちたのか、明けの明星、暁の子よ。どうしてお前は地へと切り落とされたのか、諸国を打ち破った者よ」というフレーズが、紀元前7世紀の異教の教典の中にそっくりそのまま載っていると重ねて主張。ルシフェルユダヤ教よりも古い時代の神であることを裏付けようとしているのだが、それなりに知識のある人間はここで「ちょっと待てよ」と立ち止まるはず。紀元前7世紀といえば、「イザヤ書」の成立時期と重なっているのでは?
 あまりにも怪しいので、彼女がこの話の典拠として『神話・伝承事典』の巻末に挙げているウィリアム・フォクスウェル・オルブライトの"YAHAWEH AND THE GODS OF CANAANヤハウェとカナンの神々)"を取り寄せて読んでみた。何のことはない、「異教の教典」というのは要するに、ユダヤ教(=キリスト教的には異教)の教典であるところの「イザヤ書」のことだった。本当にありがとうございました。
 レトリックを解しないバーバラおばさんの読解力の欠如を示すものか、はたまた牽強付会を補強する意図的な誤読なのか−−ともあれ、ウガリット神話のシャヘルがルシファーの原型だというそれなりに魅力的な話は、根も葉もない後付のでっちあげであることが完膚なきまでに明らかになったわけだ。
 僕がマルコム・ゴドウィンの『天使の世界』を胡散臭い本だと考えるようになったのは、実に「ルシフェル=シャヘル」説についての記述があったからとも言える。(無論、それだけではないのだけれど)

Canaanite Myths And Legends (Academic Paperback)

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Yahweh and the Gods of Canaan: An Historical Analysis of Two Contrasting Faiths

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追記:
 ところで、天使サタナイルが「神(エル)」の称号を喪ってサタン(ソトナ)になったというのは、いわゆる『モルフィル版エノク書』の種本である12世紀の『秘密の書(聖ヨハネの書)』が典拠らしかったりする。