『アル・アジフ』について

 H・P・ラヴクラフトは、「『ネクロノミコン』の歴史」と題する文章(文庫版全集5巻)の中で、『アル・アジフ』というアラブ語版の原題について、以下のように説明しています。

 アジフは魔物の吠え声と考えられた夜の音(昆虫の鳴き声)を示すためにアラブ人が用いた言葉。(訳・大瀧啓裕)


 クラーク・アシュトン・スミスに宛てた1927年11月27日の書簡において、ラヴクラフトはこの「アジフ(Azif)」という言葉を、『ヴァテック』へのヘンリーの注記から取ったのだと説明しました。
『ヴァテック』は、イギリスの作家・旅行家であったウィリアム・トマス・ベックフォードの小説で、彼がスイスに在住していた1786年に、フランス語で執筆されました。
 何故、フランス語? という疑問については、『ヴァテック』の執筆が、18世紀の前期にアントワーヌ・ガランによってフランス語に翻訳され、初めてヨーロッパ人に紹介された『千夜一夜物語』の巻き起こした文学的衝撃に対する反応のひとつであったことが回答になるでしょう。『ヴァテック』の執筆当時、アラビアン・ロマンスはフランス語で書かれたものであることがひとつのステータスであったわけです。(アーサー王物語に代表されるイギリスの騎士道物語が、フランスの宮廷・サロンで愛好されたことと無関係ではないかも知れません)
「英国人作家」ウィリアム・ベックフォードのこの作品は、1874年にサミュエル・ヘンリーによって英訳されました。ラヴクラフトが読んだのは、この英語版なのでしょう。
 サミュエル・ヘンリーの注釈から、関連する箇所を引用します。

詩篇』第91篇第5節の「夜の恐怖」(森瀬注:という語句)は、古い英語版では「夜の虫(バグ)」と翻訳されていたことが確認できる。北米の初期の植民地では、有害な性質の夜行性の蠅が虫(バグ)と呼び倣わされていた。バグベアという語が、至るところに恐怖をもたらすものを意味する所以である。ベルゼブブすなわち蝿の王は東洋における魔王の呼称であり、アラビア人がアジフ(Azif)と呼んだ夜の音(森瀬注:文脈的に、虫の声と解することができる)は魔神の吠え声であると信じられていた。


 興味深いことに、"The Names Necronomicon and Al Azif:Where They Came From, What They Mean."におけるダン・クロアの指摘によれば、"Azif"という語はアラブ語に存在しないのだそうです。

参考url:
The Names Necronomicon and Al Azif:Where They Came From, What They Mean.
http://www.reocities.com/soho/9879/necname.htm

 と、ここまで日記を書いたところで竹岡啓氏(例によって)に指摘されたところによれば、小説『黒い仏』に「妙法蟲聲經」(『アル・アジフ』の中国語訳)を登場させた殊能将之氏が既に詳しい解説を書かれていた由。車輪の再発明をしてしまいました。とほほ。
 詳しくはこちらを御覧いただく方が早そうです。

参考url:
妙法蟲聲經
http://www001.upp.so-net.ne.jp/mercysnow/Books/Black_Buddha/chuseikyo.html

 幼少期に『千夜一夜物語』に耽溺したというラヴクラフトは『ヴァテック』から大いに影響を受け、「アザトース」(未完)の執筆について『ヴァテック』のような物語を書きたかったのだと表明しています。
 魔王アザトースというのはひょっとすると、『ヴァテック』にも登場するイスラム教圏の魔王イブリース(イフリート)を意識して設定されたのかも知れません。
 ロバート・M・プライスは、ウィル・マレーの推測を引いて設定初期のアザトースを「超越的な存在ではあるが、人格神(指輪をはめて玉座に座したスルタン)」と考察しているようですが、森瀬的にはイブリース説を想定したいところです。

関連url:
アザトース(凡々ブログ)
http://d.hatena.ne.jp/Nephren-Ka/20090827/

ヴァテック (バベルの図書館 23)

ヴァテック (バベルの図書館 23)