詳説「ダンウィッチの怪」第1章-1

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[この詳説は、ラヴクラフト自身の手になる文書は当然ながら、リン・カーター、S・T・ヨシ、ドナルド・R・バールスン、竹岡啓はじめ先人たちによる研究成果を踏まえつつ、森瀬繚独自研究に基づく見解を少なからず含んでいます。本稿の内容をWEBサイト、刊行物に盛り込む場合、森瀬繚にコンタクトして最新情報について照会するのが賢明です。もし、神をも畏れぬ蛮勇があなたをしてこの禁を侵さしめた時、きっと間を置かず七つの呪いが御身に降りかかることでしょう。何と羨ましい。]

 本稿の目的は「ダンウィッチの怪」という作品の分解と解析−−筆者はこの楽しい作業を〈微分〉あるいは〈素因数分解〉と呼んでいる−−であって、ハワード・フィリップス・ラヴクラフトという人物の評伝を書くことではない。
 ラヴクラフトとその作品について興味を抱かれる方は、既にコミック版『クトゥルフの呼び声』に解説を寄せている上、リン・カーターの『クトゥルー神話全書』(40年近く前の古い本ではあるが、訳者・監修者による詳細の注釈によって補足されている)が刊行されたばかりなので、これらの本にあたることをお勧めする。
 ここでは、「ダンウィッチの怪」と分かち難く結び付いている、その執筆前後の事情から説き起こすことにしよう。
 ラヴクラフト研究家のS・T・ヨシによれば、「ダンウィッチの怪」の執筆は1928年8月のこととされている。但し、ジェイムズ・F・モートンに宛てて〈「ダンウィッチの怪」という題名になるはずの新しい物語〉について報告した手紙の日付が誤りでないのなら、ラヴクラフトは6月の時点でこの作品の準備に取り掛かったのかも知れない。(注1)

 やがて1926年、妻の勧めもあってラヴクラフトは懐かしいプロヴィデンスへと帰還し、母親ほどではないものの過保護な叔母二人と一緒に暮らすようになる。ラヴクラフトが、ニューヨークで暮らした2年を除き、その人生の大半を過ごしたニューイングランド地方−−とりわけ生まれ故郷であるプロヴィデンスをどれほど愛しているか気づかされたのは、まさにこの「帰還」の時なのだろう。
−−宮崎陽介『クトゥルフの呼び声』(PHP研究所)、森瀬繚による解説より


 1924年、アマチュア作家仲間のソニア・H・グリーンと結婚するべくニューヨークへと移り住んだラヴクラフトであったが、オハイオ州で働くことになった妻と別居状態になったのをきっかけに、生まれ故郷のプロヴィデンスロードアイランド州の州都)へと〈帰還〉した。1926年4月17日のことである。
 この年の8月から9月にかけて執筆された「クトゥルーの呼び声」は、1925年−−即ち、彼の不在中のプロヴィデンスを描いた作品である。彼は、2年間のニューヨーク生活によって生じた自らの〈欠落〉を、小説の執筆によって埋めようとしたのかも知れない。以後、ラヴクラフトの小説に占めるニューイングランド地方を舞台とする作品の割合は、目に見えて増えて行く。「クトゥルーの呼び声」と「ダンウィッチの怪」の間に、彼が手がけた作品は7作品。その実に6作品までが、ニューイングランドにまつわる物語なのだ。
 以下、その該当作を示そう。

  • 1926年9月 「ピックマンのモデル」ボストン、セイラム
  • 1926年10月〜1927年1月 「未知なるカダスを夢に求めて」ボストン
  • 1926年11月 「銀の鍵」ボストン
  • 1926年11月 「霧の高みの不思議な家」キングスポート(モデルはマーブルヘッド)
  • 1927年1月〜3月 「チャールズ・ウォードの奇妙な事件」プロヴィデンス
  • 1927年3月 「宇宙からの色」アーカム(モデルはセイラム)

 残り1つはアメリカ中西部を舞台とする「イグの呪い」で、ゼリア・ビショップの依頼を受けたラヴクラフトが彼女のアイディアを元に原稿を全部書きおろした、実質的にはラヴクラフト作品と言って良い作品だ。
 決して多作とは言えないラヴクラフトの創作活動を通して、作品の数だけで言えば小説執筆に手を染めたばかりで作風や文体の模索を続けていた1920年代の初頭に匹敵する、充実した時期である。
クトゥルーの呼び声」をいったん突き返すなど、"Weird Tales"のファーンズワース・ライト編集長による冷遇はまだ続いていたが、ヒューゴー・ガーンズバック(注2)によって1926年に創刊されたばかりの"Amazing Stories"1927年9月号に掲載され(但し、原稿料は25$)、1924年に彼が書いた「忌み嫌われる家」の単行本刊行を友人のウィリアム・ポール・クックが持ちかけてくるなど(注3)、新たな道が開けつつもあった。
 こうしたラヴクラフトの活躍を横目で眺めるにつけ、このユニークな作家と距離が開くのは得策ではないものと判断したのかも知れない。"Weird Tales"のライト編集長は、1927年10月号に「ピックマンのモデル」を掲載したのに引き続き、かつて没にした「クトゥルーの呼び声」を1928年2月号に、「潜み棲む恐怖」を同年6月号にと、次々と掲載し始めたのだった。
 ニューヨーク時代に彼が執筆した「レッド・フックの恐怖」が、1928年にイギリスで刊行された怪奇小説アンソロジー"You'll Need a Light"に収録されたこともまた、植民地在住の英国人を自負するラヴクラフトの自尊心を大いに満足させたことだろう。
「ダンウィッチの怪」の執筆にとりかかった頃、いつも必要以上に自分の才能を卑下しがちなラヴクラフトは、目に見える実績に裏付けられた作家としての自信を持ち始めていた。その数年後、彼がようやく育てた自信は、畢生の大作「狂気の山脈にて」が拒絶されたことで打ち砕かれてしまうのだが、それはまた別の話である。

注1 おそらくこの書簡を根拠に、リン・カーターは『クトゥルー神話全書』において「ダンウィッチの怪」の着手時期を1928年6月としている。

注2 ヒューゴー賞の由来となったSF草創期の立役者。

注3 ウィリアム・ポール・クックはドリフトウッド・プレスというアマチュア出版社を経営していた。「忌み嫌われる家」は1928年に300部が印刷されたものの、クックの家庭を見待った不幸によって製本されないまま放置された。よって、ラヴクラフトの最初の単行本とはならなかった。この印刷原稿は、ラヴクラフトの死後、R・H・バーロウとアーカムハウスによってそれぞれ製本されている。