〈ヨス=トラゴン〉設定についての覚書(前篇)

 朝松先生のクトゥルー神話×ナチス連作『邪神帝国』が、このほど創土社クトゥルー・ミュトス・ファイルズにて復刊されました。これを記念して、同人誌『夏冬至点』2011年冬号に掲載した拙稿「〈ヨス=トラゴン〉覚書」を、一部誤字などを修正した上で全文公開させていただきます。

邪神帝国 (The Cthulhu Mythos Files3)

邪神帝国 (The Cthulhu Mythos Files3)

 日本を代表する怪奇小説家であると同時に(何しろ、既存作品の翻訳という形ではなく、海外から直接執筆依頼を受けている稀有な存在なのである)、編集者、アンソロジストとして日本におけるクトゥルー神話の発展に大いに寄与してきた朝松健。本稿は、彼の作品にしばしば登場するオリジナルの神性〈ヨス=トラゴン〉の設定を整理し、クトゥルー神話作品はもちろん、『クトゥルフ神話TRPG』における利用を促進しようという主旨の覚書である。
 H・P・ラヴクラフトの前期作品におけるクトゥルー神話的設定がそうであったように、朝松健にとって〈ヨス=トラゴン〉をはじめとする諸々の存在はあくまでも物語の従属物であり、確固たる実体を持つ記号−−キャラクターでは決してない。その意味では、本稿はきわめて無粋な試みであり、今後、発表されるであろう朝松作品における関連描写と必ずしも一致するものではない。とはいえ、千葉県夜刀浦市という魅力的なクトゥルー神話スポット同様、数十年に渡る「朝松作品」という素材の宝庫を活用しないままに放置するのは、記号の共有によるゆるやかな作品同士の連結という、クトゥルー神話最大の特徴である〈シェアード・ワード〉の精神にもとるというものだろう。
 なお、日本人作家によるオリジナルのクトゥルー神話の邪神といえば、栗本薫の『魔界水滸伝』に登場するグァルドゥルア=ル、古橋秀之の『斬魔大聖デモンベイン―機神胎動』やゲーム『機神飛翔デモンベイン』に登場するズアウィア(アレイスター・クロウリーに『法の書』を授けた守護天使エイワスの名前を逆読みしたもの)などが挙げられる。機会があれば、これらの神性についてもいずれ紹介してみたい。

機神飛翔デモンベイン DXパッケージ版

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1・出典

〈ヨス=トラゴン YOTH-TLAGGON〉という語は、朝松氏が全くのゼロからひねり出したものではない。ドイツ第三帝国クトゥルー神話の融合を試みた朝松氏の作品集『邪神帝国』(ハヤカワ文庫JA)巻末につけられた〈魔術的注釈〉において氏自らが解説しているように、H・P・ラヴクラフトが書簡の書き出しにおいて一度だけ言及した、謎めいた言葉を出典とする。
 この書簡は、ラヴクラフトが盟友C・A・スミス(彼はスミスのことをクラーカシュ=トンと呼んだ)に宛てた1932年4月4日付けの手紙で、アーカムハウスから刊行されたラヴクラフト書簡集"Selected Letters IV"の37ページに掲載されている。朝松氏が国書刊行会の編集者として手がけた『定本ラヴクラフト全集』の第9巻、第10巻は、この"Selected Letters"に収録されている書簡の一部を翻訳・掲載したものだが、残念ながら問題の書簡は割愛されてしまっている。
 ここに、該当箇所をそのまま掲載しよう。

Yoth-Tlaggon−−at the Crimson Spring
Hour of the Amorphous Reflection


 この'Spring'をどのように日本語訳するべきかどうかについては諸説あり、筆者は「春」、H・P・ラヴクラフト研究家の竹岡啓は「泉」説をそれぞれ採っていた。残念ながら、今となっては確かめる術もないので、ここでは「春」として翻訳させていただきたい。2013年2月現在の筆者の好みに準拠し、ここでは改めて「泉」として翻訳する。

無定形の反射の刻、深紅の泉のヨス=トラゴン


 ラヴクラフトの書簡には、時折、こういった謎めいた言葉や、例えば「ショゴスの産卵期」といったような彼の作品群−−即ち、クトゥルー神話にまつわる重要な記述が唐突に差し挟まれることが多く、油断も隙もない。
 なお、前述の〈魔術的注釈〉には、もうひとつの典拠として、1960年にルチオ・ダミアーニ師父が発表した『クシャの幻影』が挙げられている。

アトランティスが未だクシャと呼ばれ、レムリアがシャレイラリィと呼ばれた太古において、ヨス=トラゴンは九大地獄と定義された」


 朝松氏は上記の引用を掲げ、加えて先の書簡が公開されたのは1970年代であり、ダミアーニ師父がその内容を知っていたはずはないと付け加えることで〈ヨス=トラゴン〉という語にもっともらしさを与えている。しかし、このルチオ・ダミアーニ師父というのは朝松氏がこしらえた架空の人物であり、その名前はイタリアのホラー映画監督であるルチオ・フルチとダミアーノ・ダミアーニの合成ということなので(筆者が朝松氏に直接確認した)、実際の出典はラヴクラフト書簡のみである。

Selected Letters: 1929-1931 (Selected Letters, 1929-1931)

Selected Letters: 1929-1931 (Selected Letters, 1929-1931)

2・〈ヨス=トラゴン〉の外見

〈ヨス=トラゴン〉の名は、朝松氏の様々な作品中に登場しているが、多くの場合それは名前のみの言及であって、「クトゥルーの呼び声」のクトゥルーよろしく(あれについては眷族説も根強い)、直接、姿を現したことはない。
 但し、その真の姿を目撃したらしいキャラクターが少なくとも二人存在する。ナチス国家社会主義ドイツ労働者党)の副総統ルドルフ・ヘスと、ドイツ人魔術師クリンゲン・メルゲルスハイムである。ルドルフ・ヘスは、親衛隊国家長官ハインリヒ・ヒムラーと共にドイツ第三帝国のオカルト伝説を担う実在人物で、いわゆる闘争時代以来のヒトラーの腹心でありながら、1940年に飛行機でイギリスへと渡り、英独両国を困惑させた事件が有名だ。*1
 クリンゲン・メルゲルスハイムは朝松作品にしばしば登場するドイツ人魔術師である。*2
S-Fマガジン』(早川書房)の1994年6月号に掲載された「ヨス=トラゴンの仮面」(『邪神帝国』に収録)は、メルゲルスハイムが隠し持っていた〈ヨス=トラゴンの仮面〉を、ヘスとヒムラーが奪い合うという物語だ。
 白金で作られた〈ヨス=トラゴンの仮面〉は、細長い逆三角形の顔に、先が鋭く尖った耳と顎、吊り上った目を備え、額からイソギンチャクのような触手を生やした異形の種族の顔を象った仮面である。この仮面を被ったヘスは、「アトランティスが未だクシャと呼ばれ、レムリアがシャレイラリィと呼ばれていた時代……地球の主が人類ではなかった時代」の映像を目撃し、やがて旧支配者の崇拝していた神、〈ヨス=トラゴン〉の真の姿を目の当たりにする。この時、ヘスが切れ切れに口走った内容が、〈ヨス=トラゴン〉の外見についての唯一の情報源となっている。以下に箇条書きでまとめてみよう。

  • 巨大である
  • 触手を持っている
  • 数知れない眼を瞬かせている
  • ナメクジのような光沢がある
  • 鱗と皺だらけである
  • 知的な光を眼に湛えている


 メルゲルスハイムによれば、「ヨス=トラゴンに会った人間は必ず失神する。そして……再び気づいた時には、聖者か狂人になっている」ということだ。なお、1988年2月に刊行された朝松健『魔犬召喚』(角川春樹事務所)では、メルゲルスハイムはナチスのオカルト・パージで獄死していることになっているが、こちらの「ヨス=トラゴンの仮面」では事件後に姿を晦ましているので、表向きは獄死したことになったと解釈すべきだろう。
 ちなみに、〈ヨス=トラゴンの仮面〉が象る顔は、かつてこの神を崇拝していた旧支配者−−今日のクトゥルー神話シーンにおいては邪神群の総称として用いられることが多いが、この場合は、人類以前に地球を支配していた種族と解釈するべきだろう−−のものと思われるが、同時にまたメルゲルスハイム自身の顔に酷似しているとも説明されている。

魔犬召喚 (ハルキ文庫)

魔犬召喚 (ハルキ文庫)

*1:このヘス渡英の裏には、「ノストラダムスの大予言」を利用した英国側の情報工作があったという怪しげな噂がまことしやかに囁かれており、アレイスター・クロウリーイアン・フレミングの名前が仕掛け人として挙がっている。

*2:アレイスター・クロウリーの弟子であり、魔術結社O.T.O(東方聖堂騎士団)の後継者となったカール・ゲルマーがモデルと思われる。その後、朝松先生より「ゲルマーではなくフランツ・バードンがモデル」とのご指摘をいただいた。