アイギスについて
世界各地の神話全般について言えることですが、ギリシャ神話の物語について今日我々が知っていることは実に断片的で、ホメーロスの『イーリアス』や『オデュッセイアー』をはじめ、古代の詩人や著述家たちの手になる文献中に散らばる矛盾に満ちた記述を手がかりに、後世の人間がどうにか再現したものです。
ヘシオドスの『神統記』や、アポロドーロスの『ビブリオテーケー』など、世界と神々の誕生の物語を描くギリシャ神話ガイドブックともいうべき文献も幾つか残存していますが、その内容は多くの部分で一致しません。これらはあくまでも著者の主観や信条に基づく記述であって、紀元前8世紀のギリシャに生きていたホメーロス本人が知る「ギリシャ神話」と異なっているのです。
のみならず、多くの人が「ギリシャ神話の物語」と認識しているエピソードの中には、ホメーロスの時代から数百年を隔てたローマ時代に生まれたものも、少なからず含まれます。21世紀現在の我々から見れば等しく「古代」に属する古典作品ではありますが、数百年もの年代のずれがあることを見落としてしまいがちです。言ってみれば、『源平盛衰記』と現代の作家−−例えば司馬遼太郎の『義経』をひとくくりにしてしまうようなものですね。
さて、ここでひとつのサンプルを提示しましょう。ギリシャ神話に登場する「アイギス(イージス)」について、ギリシャ神話事典などにはだいたい以下のように書かれています。
アイギスは、ギリシアの神々が用いた強力な武具である。
主神ゼウスのシンボルであり、様々な物語に「アイギス持つゼウス」という尊称が頻繁に現れる。
鍛冶の神ヘファイストスがゼウスにアイギスを献上し、戦女神アテナと太陽神アポロンがそれぞれ装備する。
ある伝説によれば、アイギスはゼウスの養母アマルテアの飼っていた山羊の皮を用いて作られた。ゼウスは、その山羊の乳で育てられたのである。そして、巨人族との戦いに勝利するためにはヤギの皮とゴルゴンの頭で身を守らねばならないという予言を受けたのだ。
勝利の後、ゼウスは残されていたヤギの骨を皮で包んで命を与え、その姿を星で描くことによって記念した。そして、アイギスをアテナに与えたのだという。
アイギスの形状は肩かけか上衣のようなものとも、円型の大盾とも言われている。ゼウスの雷も通じない防具であると同時に、敵に恐怖を撒き散らし、味方の士気を鼓舞する武器でもあった。
アテナがアイギスを掲げてオデュッセウスの妻ペーネロペーの求婚者たちを恐慌に陥れたことがある。
アテナの持つアイギスからは純金で編まれた百本の房が垂れ下がり、その縁をポボス(潰走)がとりまき、表にはエリス(争い)、アルケ(勇武)、イオケ(追撃)、そして見る者を石に変える蛇髪の怪物ゴルゴンの首がつけられていた。
このゴルゴンの首は、英雄ペルセウスから献じられたとも、アテナ自ら退治したとも言われている。メデューサ以外に知られていない蛇髪のゴルゴンが他にも存在したのでない限り、アテナの持つアイギスだけが怪物の首をつけていたのだろう。
【以上の文章は、森瀬繚が新規に書き起こしたものです。WEBサイト、刊行物などへの無断での再利用はご遠慮願います】
一見すると、首尾一貫している文章に思えるかも知れません。
実際には、この文章は数多くの作品中に散らばっている、アイギスについての断片的な記述・設定を寄せ集め、うまいことまとめただけのパッチワーク(つぎはぎ)です。
アイギスを「素因数分解」する
では、この「アイギス」にまつわる設定のひとつひとつについて、ソース単位で分割してみましょう。
アイギスは、ギリシアの神々が用いた強力な武具である。
主神ゼウスのシンボルであり、様々な物語に「アイギス持つゼウス」という尊称が頻繁に現れる。
鍛冶の神ヘファイストスがゼウスにアイギスを献上し、戦女神アテナと太陽神アポロンがそれぞれ装備する。
このあたりは、ホメーロスの叙事詩『イーリアス』に基づいています。
アイギスというと戦いの女神アテナの武具という印象が強いかと思いますが、ホメーロスの作品中にはしばしば「アイギス持つゼウス」という尊称が現れるので、本来はゼウスに属しているようです。
また、少なからぬギリシャ神話の解説書には、「ヘファイストスが造った」と書かれています。実のところ、現在確認可能な『イーリアス』の古代ギリシャ語原文では「献上した」とあるのみで、造ったとまでは書かれていません。「ヘファイストスが造った」と考えるのが自然とは思いますが、あくまでも後世の解釈のひとつです。
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ある伝説によれば、アイギスはゼウスの養母アマルテアの飼っていた山羊の皮を用いて作られた。ゼウスは、その山羊の乳で育てられたのである。そして、巨人族との戦いに勝利するためにはヤギの皮とゴルゴンの頭で身を守らねばならないという予言を受けたのだ。
勝利の後、ゼウスは残されていたヤギの骨を皮で包んで命を与え、その姿を星で描くことによって記念した。そして、アイギスをアテナに与えたのだという。
紀元前1世紀のローマの詩人ガイウス・ユリウス・ヒュギーヌスによる星座神話の書物、『天文詩』における「ぎょしゃ座」にまつわる記述です。いきなり数百年がすっとんでいきました。
なお、『天文詩』のこの箇所では、アマルテアについて「ニンフ」とする伝説と、「アエクスとヘリスというゼウスの養母をつとめたニンフの飼っていたヤギ」とする伝説を併記しています。
アイギスの形状は肩かけか上衣のようなものとも、円型の大盾とも言われている。ゼウスの雷も通じない防具であると同時に、敵に恐怖を撒き散らし、味方の士気を鼓舞する武器でもあった。
再び、ホメーロスに戻ります。ここは、『イーリアス』の記述です。円形の大盾云々については、ゴルゴンの首が中央についた大盾を持つアテナの彫像に基づきます。
アテナがアイギスを掲げてオデュッセウスの妻ペーネロペーの求婚者たちを恐慌に陥れたことがある。
アテナの持つアイギスからは純金で編まれた百本の房が垂れ下がり、その縁をポボス(潰走)がとりまき、表にはエリス(争い)、アルケ(勇武)、イオケ(追撃)、そして見る者を石に変える蛇髪の怪物ゴルゴンの首がつけられていた。
ホメーロスの『オデュッセイアー』に基づく記述です。『イーリアス』の描写と併せ読む限りでは、明らかに盾ではありませんね。
後年、アイギスがギリシア式の丸盾としてもっぱら描かれるようになったのは、『イーリアス』に登場する英雄アガメムノンが、中央にゴルゴンの首をあしらった大盾を持っていたことから、混同が生じたのだと考えられます。
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このゴルゴンの首は、英雄ペルセウスから献じられたとも、アテナ自ら退治したとも言われている。
1〜2世紀頃の著述家アポロドーロスの『ビブリオテーケー』(岩波文庫版のタイトルは『ギリシア神話』)と、紀元前1世紀の詩人オウィディウスの『変身物語』が典拠です。どちらもローマ人ですね。
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さて、こうして出典を確認してみますと、アイギスにまつわる少なからぬ設定が古代ギリシャに遡ることができず、ローマ時代の著作から引用されていることがわかります。
もちろん、文字の形になっていないだけで、口伝えで受け継がれてきた伝承があったのかも知れません。かつて存在していた書物(記録)が喪われてしまった可能性も否定できません。
ともあれ、トマス・ブルフィンチに代表されるローマ・ギリシャ神話の再話者・解説者たちが「一続きの物語」としてギリシャ神話を紡いだ方法は、こんな具合のパッチワークだったわけです。
僕は、こうしたやり方で神話・伝説の「設定」をソース単位で解体していくリバースエンジニアリングを、「素因数分解」と呼んでいます。
ああ、それにしても−−ローマ・ギリシャ神話についての本を書きたいなー、と呟き続けて数年経ちました。(注:宿題多すぎてそれどころではありません)