アイギスを「素因数分解」する

 では、この「アイギス」にまつわる設定のひとつひとつについて、ソース単位で分割してみましょう。

 アイギスは、ギリシアの神々が用いた強力な武具である。
 主神ゼウスのシンボルであり、様々な物語に「アイギス持つゼウス」という尊称が頻繁に現れる。
 鍛冶の神ヘファイストスがゼウスにアイギスを献上し、戦女神アテナと太陽神アポロンがそれぞれ装備する。

 このあたりは、ホメーロス叙事詩イーリアス』に基づいています。
 アイギスというと戦いの女神アテナの武具という印象が強いかと思いますが、ホメーロスの作品中にはしばしば「アイギス持つゼウス」という尊称が現れるので、本来はゼウスに属しているようです。
 また、少なからぬギリシャ神話の解説書には、「ヘファイストスが造った」と書かれています。実のところ、現在確認可能な『イーリアス』の古代ギリシャ語原文では「献上した」とあるのみで、造ったとまでは書かれていません。「ヘファイストスが造った」と考えるのが自然とは思いますが、あくまでも後世の解釈のひとつです。

イリアス〈上〉 (岩波文庫)

イリアス〈上〉 (岩波文庫)

イリアス〈下〉 (岩波文庫)

イリアス〈下〉 (岩波文庫)

 ある伝説によれば、アイギスはゼウスの養母アマルテアの飼っていた山羊の皮を用いて作られた。ゼウスは、その山羊の乳で育てられたのである。そして、巨人族との戦いに勝利するためにはヤギの皮とゴルゴンの頭で身を守らねばならないという予言を受けたのだ。
 勝利の後、ゼウスは残されていたヤギの骨を皮で包んで命を与え、その姿を星で描くことによって記念した。そして、アイギスをアテナに与えたのだという。

 紀元前1世紀のローマの詩人ガイウス・ユリウス・ヒュギーヌスによる星座神話の書物、『天文詩』における「ぎょしゃ座」にまつわる記述です。いきなり数百年がすっとんでいきました。
 なお、『天文詩』のこの箇所では、アマルテアについて「ニンフ」とする伝説と、「アエクスとヘリスというゼウスの養母をつとめたニンフの飼っていたヤギ」とする伝説を併記しています。

 アイギスの形状は肩かけか上衣のようなものとも、円型の大盾とも言われている。ゼウスの雷も通じない防具であると同時に、敵に恐怖を撒き散らし、味方の士気を鼓舞する武器でもあった。

 再び、ホメーロスに戻ります。ここは、『イーリアス』の記述です。円形の大盾云々については、ゴルゴンの首が中央についた大盾を持つアテナの彫像に基づきます。

 アテナがアイギスを掲げてオデュッセウスの妻ペーネロペーの求婚者たちを恐慌に陥れたことがある。
 アテナの持つアイギスからは純金で編まれた百本の房が垂れ下がり、その縁をポボス(潰走)がとりまき、表にはエリス(争い)、アルケ(勇武)、イオケ(追撃)、そして見る者を石に変える蛇髪の怪物ゴルゴンの首がつけられていた。

 ホメーロスの『オデュッセイアー』に基づく記述です。『イーリアス』の描写と併せ読む限りでは、明らかに盾ではありませんね。
 後年、アイギスギリシア式の丸盾としてもっぱら描かれるようになったのは、『イーリアス』に登場する英雄アガメムノンが、中央にゴルゴンの首をあしらった大盾を持っていたことから、混同が生じたのだと考えられます。

ホメロス オデュッセイア〈上〉 (岩波文庫)

ホメロス オデュッセイア〈上〉 (岩波文庫)

ホメロス オデュッセイア〈下〉 (岩波文庫)

ホメロス オデュッセイア〈下〉 (岩波文庫)

 このゴルゴンの首は、英雄ペルセウスから献じられたとも、アテナ自ら退治したとも言われている。

 1〜2世紀頃の著述家アポロドーロスの『ビブリオテーケー』(岩波文庫版のタイトルは『ギリシア神話』)と、紀元前1世紀の詩人オウィディウスの『変身物語』が典拠です。どちらもローマ人ですね。

ギリシア神話 (岩波文庫)

ギリシア神話 (岩波文庫)

オウィディウス 変身物語〈上〉 (岩波文庫)

オウィディウス 変身物語〈上〉 (岩波文庫)

オウィディウス 変身物語〈下〉 (岩波文庫)

オウィディウス 変身物語〈下〉 (岩波文庫)

 さて、こうして出典を確認してみますと、アイギスにまつわる少なからぬ設定が古代ギリシャに遡ることができず、ローマ時代の著作から引用されていることがわかります。
 もちろん、文字の形になっていないだけで、口伝えで受け継がれてきた伝承があったのかも知れません。かつて存在していた書物(記録)が喪われてしまった可能性も否定できません。
 ともあれ、トマス・ブルフィンチに代表されるローマ・ギリシャ神話の再話者・解説者たちが「一続きの物語」としてギリシャ神話を紡いだ方法は、こんな具合のパッチワークだったわけです。
 僕は、こうしたやり方で神話・伝説の「設定」をソース単位で解体していくリバースエンジニアリングを、「素因数分解」と呼んでいます。

 ああ、それにしても−−ローマ・ギリシャ神話についての本を書きたいなー、と呟き続けて数年経ちました。(注:宿題多すぎてそれどころではありません)