栄光なきガン・ジーニアス

 1990年3月23日。ベルギー首都ブリュッセルのフランソワ・フォリー街にあるアパート6階で、一人の老人が死体となって発見された。死因は、射殺。暗殺である。至近距離から打ち込まれた5発の弾丸が後頭部と頸部に撃ち込まれ、彼の命を奪い物言わぬ死体に変えてしまったのだ。前夜、秘書のモニク・ジャミネの運転する車で彼が経営するスペース・リサーチ社のオフィスを後にし、途中、夕食のパンを買ってアパートの部屋へと戻り、ドアに鍵を入れたまさにその瞬間の凶行である。
 長年連れ添った妻子を祖国に残した、独り住まいの異邦の地で孤独な死を遂げたその老人の名はジェラルド・ブル。弾丸のために生涯を費やし、ついには弾丸によって命を奪われることになった、カナダ人の科学者である。



 ジェラルド・ブルは1928年、カナダのオンタリオ州はノースベイにて生を享けた。幼くして母を亡くし、父親からも見棄てられた後、叔母に養育された彼の幼年期は、決して幸福なものではなかったようだ。この不幸な境遇から逃避するために、幼いブルは読書と学問に没頭するが、この頃に彼の生涯の研究テーマとなり、最終的に望まざる死の原因にも繋がることとなるジュール・ヴェルヌの『月世界旅行』との出会いを果たしている。
 学問に長じていたブルは、23歳のときにトロント大学を優秀な成績で卒業し、CARDE(カナダ軍事研究開発事業団)に研究員の職を得る。CARDEには、第二次世界大戦後にドイツ第三帝国より多数の兵器関係資料が運び込まれていた。これらの資料の中に、世界史上最大の火砲として知られるドーラ砲に関するものが含まれていたかどうかは残念ながら定かではない。
 裕福な家庭の出であるフランス系カナダ人ノエミー・ギルバートとの結婚と、彼女との間に設けた7人の子供達は、それまでに過ごしてきた艱難辛苦の人生で味わったことのなかった愛と安らぎを彼にもたらした。職場においてもその頭脳を縦横無尽に発揮した彼は、31歳の若さでCARDEの空気力学部門の主任となり、ジェラルド・ブルという名前はカナダ国内でも最優秀の空気力学者として知られるようになっていった。しかしながら、「天才的科学者」の常として、管理職に要求される政治的配慮は彼に無縁のものだった。彼がマスコミに対して広げてみせた大風呂敷の数々は、常に上層部の官僚達に問題視され、叱責と反論の応酬は両者の間に埋め難い溝を作り出した。ブルがCARDEを辞したのは、彼が空気力学部門のトップに立った僅か2年後のことである。
 1961年、ジェラルド・ブルはアメリカ合衆国国防総省とカナダの防衛部からの資金援助を受け、衛星軌道上への弾体射出すらも可能とする巨大な大砲の研究を行うプロジェクト「HARP(高々度調査計画)」に着手した。この時、彼の脳裏にボルチモア大砲倶楽部の面々が月に向かって弾丸を打ち出したコロンビアード砲のことがあったのは疑いがないだろう。ミサイルの開発費用に比べると実に微々たる資金を費やしてブルが研究・開発した大砲は、計画の最終段階では180キログラムの発射体を軌道脱出速度のおよそ3分の1にあたる秒速3600メートルの速度で射出することを可能にした。この時が、ブルにとっての黄金時代であったかも知れない。
 しかし、ベトナム戦争に反対したカナダが計画から撤退したことに始まり、CARDE時代に作った敵対者による妨害を受け、ブルが更に長く大きい砲の開発に着手する前に彼の資金提供者達の大半が手を引いてしまう。
 このような困難にも関わらず、衛星軌道上への到達を可能にする大砲へ向けられたブルの情熱を抑えつけることなどできなかった。大国からの援助を失ったブルは、今度は兵器開発の分野において欧米に立ち遅れていた世界各国の軍へと自らの技術と研究データを売り込みはじめたのである。興味深いことに、彼の周囲の人間の証言によれば、ブル自身は決して軍国主義者ではなかったという。彼はただ、自分の夢を実現したかっただけなのだ。その点において、ジェラルド・ブルという人物には、有人ロケット開発のために最初はドイツ、次はアメリカの軍部に協力することを厭わなかったフォン・ブラウンを思い出させるところがある。ヴェルヌへの憧れは勿論、自らの研究のスポンサーを見つける営業の巧みさや強引さ、アクの強い性格といったところまで似通っている。しかしながら、フォン・ブラウンが栄光に包まれて天寿を全うしたのに対して、ブルが迎えた死は暗殺という昏い影に包まれたものとなった。この相違は、一体どこからきたものだろうか。