プロジェクト・バビロン

 南アフリカ共和国への軍事協力が、ブルとフォン・ブラウンの明暗を決定的に分ける分岐点となった。アンゴラ戦争の最中、アメリカのCIA(中央情報局)の黙認のもと、ブルは南アフリカ共和国のために高性能の銃身を大量に提供するだけではなく、新式の曲射砲を設計するなどの技術援助を行った。全ては、研究資金を得るためである。しかしながら、南アフリカに対して彼が行った超法規的な活動は、新たに大統領に選出されたジョン・カーターの政権下で問題視され、ブルは法廷に立たされることとなった。不運なことに、CIAもまた新政権下で大幅に縮小されており、彼をそうした立場から護るだけの影響力を失っていた。
 1980年、ジェラルド・ブルは懲役4ヶ月の実刑判決を受けた。この裁判がブルに遺した精神的な傷は小さからぬものだった。長年かけて培ってきた彼の名声は地に堕ち、彼の会社と研究施設は共に失われてしまった。
 祖国に続いてアメリカにも裏切られた──彼がそのように考えても無理からぬことだろう──ブルは、北米大陸を見棄ててヨーロッパへ渡り、ベルギーのブリュッセルにスペース・リサーチ社の事務所を開いたのである。
 既に失うものは何もなかった。しかし、夢だけはまだブルの体内で力強く燃えさかっていた。より長く、より巨大な大砲を! この目的を達成するために、既になりふりかまわなくなっていたブルは、悪魔との契約書に血のサインを記すことを厭わなかった。彼は冷戦下の中国と──そして、イラン・イラク戦争の真っ只中にあったイラクへの技術協力を申し入れたのである。
 イラクこそは、この不遇なる天才科学者が夢を実現するために最後に見出した希望の星であり、イラクにとってみれば自国の科学技術を先進諸国並に発展させるための願っても無い導き手だった。南アフリカなどの国を経由して供与した曲射砲の威力をもってイラクの絶大な信用を勝ち得たブルは、この砂漠の国に自力での人工衛星発射手段を提供する砲──「スーパーガン」の開発計画に着手する。

 プロジェクト・バビロン。ジェラルド・ブルの長年に渡る研究の集大成であり、第三帝国が開発した史上最大の巨砲、カール・グスタフをも遥かに上回る「バビロン砲」こそは、コロンビアード砲の後継者に相応しい超巨大な大砲であった。
 1989年9月にイラクの首都バグダッドにて開催された国際見本市にて展示されたバビロン砲の模型は、直径1メートルの口径と、150メートルの長い砲身を持つ、まさに「バビロン」の名に相応しい天をつく塔の如き威容を示していた。現代のネブカドネザルを自称したサダム・フセインが、星々への道を開く──或いは、彼に逆らう者達へ神の鉄槌を下すであろうこの大砲を誇りに思っていたであろうことは想像に難くない。
 しかし、ブリュッセルの事務所にいながらにして陣頭に立っているかのように開発計画を動かしていたジェラルド・ブルの暗殺から3週間が経過する頃、彼の夢もまた潰える運命にあった。
 1990年4月11日、イギリスの税関がクリーブランド州の港で「石油化学プラント用の資材」とされていた8本の巨大な鋼鉄製の筒を押収した。当局はこの部品──と、呼ぶには余りにも巨大なものであったが──がジェラルド・ブルのスーパーガンの砲身の一部であり、イラクへ運び込まれる計画だったと公表した。その後、数週間に渡ってバビロン砲の部品と目される荷物が、世界各国で続々と摘発された。トルコで、ギリシアで、イタリアで、そしてパリ砲とドーラ砲を生み出したドイツで、合計52点にも及ぶ部品が押収されたのである。
 さながら旧約聖書に描かれるバベルの塔の如く、プロジェクト・バビロンは全世界規模で崩壊し、神の居ます天上に届くはずであったバビロン砲は幻と消え去った。
 ブルの謎めいた死から6ヶ月後、イラク軍はクウェートに侵入し、中東へと向けられた世界の耳目は湾岸戦争へと向かうことになる。暫くの間マスコミを賑わせたブル暗殺の犯人探しもまた、戦争という今そこにある危機の前にやがて忘れ去られていった。イラクと敵対関係にあったイスラエルの情報機関モサドを犯人とする説が有力ではあったが、あれから15年が経過した現在もなお、事件の真相は闇の中に閉ざされている。
 ヴェルヌの『上を下に』の中で描かれるボルチモア大砲クラブの試みた地軸変更計画もまた、世界中の非難と投獄、計画の瓦解で幕を閉じた。その意味においても、ジェラルド・ブルこそは大砲クラブの最大の、そして最後の後継者だったのである。

参考文献:
『銃の科学』DISCOVERY CHANNEL
"Arms and the Man - Dr. Gerald Bull, Iraq, and the Supergun" William Lowther, Presidio Press

神の拳〈上〉 (角川文庫)

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神の拳〈下〉 (角川文庫)

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