詳説「ダンウィッチの怪」序章-2

「古えの民」は、ラヴクラフトの死後、1940年にSFファンジン"Scienti-Snaps"第3号に掲載されたのが初出である。その後、1944年にアーカムハウスから刊行されたラヴクラフトにまつわる拾遺的な作品集"Marginalia(欄外)"に掲載されている。
 日本では、福岡洋一氏の翻訳が国書刊行会の『定本ラヴクラフト全集』第4巻に収録されているものの、東京創元社の文庫版全集には入っていない。但し、青心社文庫の『クトゥルー』11巻の巻末に掲載されている「補足資料 ラヴクラフト書簡より」、そして文庫版『ラヴクラフト全集』7巻の「夢書簡」に、宛名こそ違うものの、ほぼ同内容の文章を見つけることができる。
 種明かしをしよう。
 この〈小説〉は、実のところラヴクラフトが友人ドナルド・ワンドレイ−−オーガスト・W・ダーレスと共にアーカムハウスを立ち上げた人物−−に書き送った手紙そのものなのだ。ラヴクラフトの死後、ワンドレイはこの手紙をJ・チャップマン・ミスケに提供し、ミスケはそれを自らが編集人を務めるファンジン−−"Scienti-Snaps"に掲載したのである。ラヴクラフトの未発表〈小説〉として。
 宛名の「メルモス」は、チャールズ・ロバート・マチューリンの『放浪者メルモス』にちなんでラヴクラフトがワンドレイにつけたあだ名であるし、「G・イウリウス・ウェールス・マクシムス」という署名は、自らをウェールズの伝説的な首長マグヌス・マクシムスの血統に連なると自称する、ラヴクラフトのジョークを交えた変名なのだ。
 実際、ラヴクラフトの死後になってから〈発見〉された作品は少なからず存在する。
 1927年1月末から3月1日にかけて執筆された「チャールズ・ウォードの奇怪な事件」はそれきり死蔵されてしまい、遺稿の山から発見されて"Weird Tales"の1941年5・6月合併号、7・8月合併号に掲載されるまで、親しい友人たちの中にもその原稿を目にした者はいなかった。
 1926年10月に着手し、1927年1月に完成したという「未知なるカダスを夢に求めて」は、"Weird Tales"のファーンズワース・ライト編集長によって不採用とされた後、1943年にアーカムハウスから刊行された"Beyond the Wall of Sleep"に収録されるまで日の目を見なかったのである。
 このあたりについてはいずれまた別の機会に詳説するとして−−ラヴクラフトが、友人たちと取り交わした数々の書簡から推測するに、彼がローマ人の肉体から放り出され、自室のベッドへと帰還を果たしたのは、1927年11月1日−−万聖節の朝のことであったと思われる。
 その前夜は−−あの世とこの世が繋がり、悪霊たちが地上に溢れかえるというハロウィーンの夜。普段は閑静なプロヴィデンスの住宅街もこの時ばかりは喧騒に包まれ、ラヴクラフトの自宅にも住人たちがお祭りに浮かれ騒ぐ声が聞こえてきていたようである。事によると、近所の子供たちがハワードおじさんのところにお菓子をねだりにくるようなこともあったかも知れない!−−多分、相手をしたのは同居している叔母だったのだろうけれど。
 ラヴクラフトの言葉を信じるならば、その頃、彼の関心は一冊の本に向けられていた。共和制と帝政の変わり目の時代−−紀元前1世紀の古代ローマを生きた詩人、プブリウス・ウェルギリウス・マロの『アエネーイス』である。英語圏では『イーニアッド』と呼ばれるこの叙事詩は、トロイア戦争によって滅びた古代ギリシアの都市イリオス(トロイア)から落ちのびた半人半神の英雄アエネーイスが、新天地イタリアで新たな国の礎となった−−という未完のローマ建国神話譚だ。実に七世紀の時を隔てて書かれた、トロイア戦争を描くホメロスの一大叙事詩イリアス』の続編と言っても良いだろう。
 ラヴクラフトの手にあったのは、1923年に物故したジェームズ・ローズによる韻文訳の『アエネーイス』、その第6巻を含む単行本であったはずだ。ラヴクラフト自身がそのように書き残している。(注1)
アエネーイス』を読んだのは、これが初めてのことではない。幼少の彼の育ての親とも言える母方の祖父ウィップル・ヴァン・ブーレン・フィリップスの蔵書には『アエネーイス』を含むウェルギリウスの作品集が何冊も含まれていたし、その祖父の死後、彼に多大なる影響を与えた伯父(伯母の夫)フランクリン・チェイス・クラーク−−外科医でありながら文筆活動を好んだ人物(注2)−−は、自らが翻訳した『アエネーイス』を活字中毒の甥っ子に読ませていたのである。
 ともあれ、ジェームズ・ローズの翻訳は、これまでに読んだどの英訳よりもラヴクラフトを満足させた。彼は、ドナルド・ワンドレイに宛てた1927年11月2日付の書簡の中で、「これまでに読んだどの訳よりP・マロに忠実な出来ばえだ」(『定本ラヴクラフト全集』4巻、佐藤嗣二・訳)と評している。たぶん、ローズの名前もまた、ラヴクラフトの関心を惹いた要素だったのだろう。'James Rhoads'−−即ち、ロードスのヤコブである。
 コミック版『クトゥルフの呼び声』に寄せた解説で詳しく書いたが、ラヴクラフトが住まうロードアイランド州は、正式名を「ロードアイランドおよびプロヴィデンス植民地州」。エーゲ海に浮かぶロードス島に由来している。
 このことは、ラヴクラフトが幼少期にギリシア、ローマの神話・伝説に熱中したことと決して無関係ではないだろう。幼い彼は、石造りの建物や田園地方の岩山を眺めては神々の神殿を空想し、森の中に半人半獣のサテュロスを目撃した。長じてからも−−1905年から1906年頃というから、生涯に渡って重篤中二病患者であったとも言えるラヴクラフトティーンエイジ真っ盛りの頃に、彼は幾度となくローマの夢を見たという。夢の中で彼はガイウス・ユリウス・カエサルにつき従う軍団司令官の一人となって、荒々しくも野蛮なケルトの戦士たちが待ちうけるガリア地方を巡ったのだった。

注1 『アエネーイス』は全12巻からなり、多くの場合、複数の巻を含む分冊で刊行されている。残念ながら、ラヴクラフト研究家S・T・ヨシが編纂した蔵書録"Lovecraft's Library"には、ジェームズ・ローズ訳の『アエネーイス』が掲載されていない。1920年代に新たに刊行された版があるようなので、その単行本だったのかも知れない。要調査事項。

注2 ラヴクラフトの中篇「チャールズ・デクスター・ウォードの奇妙な事件」に登場するマリヌス・ビックネル・ウィレット医師のモデルと言われている。

クトゥルフの呼び声 (クラシックCOMIC)

クトゥルフの呼び声 (クラシックCOMIC)