大砲倶楽部宣言

 2001年当時、今は亡き個人サイト(タイトルさえ思い出せない)に掲げていた大砲倶楽部日本支部の起草文を何となく貼っておきます。大砲倶楽部というのは、森瀬がコミクマーケットなどの活動で用いている個人サークル名です。
 サークルとしての大砲倶楽部日本支部は2001年2月10日に正式発足しておりますが、設定上は20世紀初頭に日露戦争に従軍した砲兵あがりや東京市蓬莱大学校の理系学生を中心に発足し、カフェの女給を月の話で口説くという奇矯な慣例から「月光族」などと称されたボンクラ共の集まりで、来日したミシェル・アルダンを名誉顧問に戴いていたということになっております。

「大砲射ちの話は、大砲の弾丸と同じでね、飛び過ぎるのが身上」
−−J・T・マストン(大砲倶楽部終身幹事)


 南北戦争の砲声が遥か海を越えたユーラシア大陸にも轟き渡ったローリング・シックスティーンズの只中、メリーランド州ボルチモア、そのユニオンスクウェア二一番地−−大砲の開発・改良を入会条件とする風変わりなクラブ、大砲倶楽部が設立された。

 ニコル大尉との五〇マイルを隔てた争いと和解、不可能を可能にしたコールド・スプリング鋳業会社の偉業、それら全ての総決算として人類を衛星軌道上に送り込んだコロンビアード砲!
 19世紀における大砲倶楽部の歴史は、そのまま栄光の歴史であった。  
 しかし、あれから既に一四〇年−−。
 我がクラブの名前がニュー・リンカーン・ヘラルドのトップを騒がせることは既になく、偉大なる初代会長インペイ・バービケイン、我らが友なるミシェル・アルダンの勲しも既に過去の物語となった。  

 地軸変更計画の天地をひっくり返すような大失敗の後、大砲に向けた尽きせぬ情熱は、一旦は「大砲王」アルフレート・クルップクルップ財団に引き継がれ、第1次欧州大戦の折にはグスタフ・クルップの最高傑作たるパリ砲がアルダンの故郷を震撼させた。
 実際、 ベルサイユ条約最大の罪は、その行き過ぎた経済的制裁でもなければ、Uボート保有を禁じたことでもなく、長距離砲の鋳造禁止事項だったものと考える。
  これさえなければ、ペーネミュンデに奇妙な工場が建設されることはなかっただろうし、核などという無粋な兵器がその後数十年に渡って人類に深刻な不安を与えることにはならなかったことだろう。
 想像するといい。
 オリンピック・スタジアムの中央にしつらえられた巨大な“ジークフリート”砲。
 ヨーゼフ・パウルゲッベルス宣伝相の演説が割れ鐘のように響き渡る。
「−−今宵、月世界を我らの新たなる生存圏に定め、そして未来永劫において第三帝国は遥か天上より世界を睥睨するのである!」  
 ジークハイルの歓呼が鯨波となってスタジアムを、やがてベルリン全体を覆い尽くしていく。
 さあ、セレモニーは終わりだ。
 ゆっくりと射角をあげていく砲筒を、百万の群集が固唾を飲んで見つめている−−。
 このような歴史だってありえたかも知れないのだ!−−無論、どちらにしたところでカインの子等にとってはたまったものではない歴史ではある。

 何にせよ、「第二、第三のコロンビアード砲を!」という我々の悲願は果たすべくもないように思われ始めた。海の上では大艦巨砲主義が終焉を迎え、三〇サンチ砲の轟雷の如き砲声の記憶も、今は遠い日の残響に過ぎない。  
 アメリカ合衆国による本土占領は一縷の望みとなった。
 建国以来、その国家信条たる「自由」を「銃」をもって達成してきた合衆国が極東の弓状列島に自由をもたらそうとするならば、無論のこと、銃も共にもたらしてくれるだろうと考えたのだ。
 我々は待ち、そして希望を持った。
 しかし、我々に与えられたのは、大砲はおろか拳銃の所有すらも規制する現行の銃刀法だった。
 全くもって理不尽な話である。
 花粉症の季節には特に気にくわなくなる杉林や、日昇権を侵害する隣のビルを吹っ飛ばしてやりたい時、大砲がなければ困るではないか!  
 しかし、如何に法という名の鎖が我々を繋ごうとも、いつも心に大砲を備え、脳髄を起爆剤としてそいつをぶっ放すことだけはできる。  
 我々は、そうすることにした。

西暦二〇〇一年二月一〇日
大砲倶楽部日本支部代表 森瀬繚