詳説「ダンウィッチの怪」序章-1

「おお見よ何と精力に、彼らは満ちてしかもなお、市民のほまれの樫の木の、冠巻いてその枝は、額の上に影おとす。汝のためにあれたちは、ノーメントゥムやガビイーや、フィーデーナ市を建設し、コルラーティアの高城や、ポーメティイーやイヌウスの、砦やポーラとコラの市を、山頂高く置き据えよう。今は名を欠く土地土地も、これらの名前を持つであろう」
−−プブリウス・ウェルギリウス・マロ『アエネーイス』上巻(岩波文庫)より


[この詳説は、ハワード・フィリップス・ラヴクラフトの「ダンウィッチの怪」の既読を最低限の前提条件としております。また、可能なればPHP研究所から刊行されているコミック『クトゥルフの呼び声』『狂気の山脈』『インスマウスの影』に寄せた拙文も併せて読んでおいていただければ、本稿と併せて大いに参考になるかと思います。]


 さて、H・P・ラヴクラフトの「ダンウィッチの怪」について詳説する前に、一見、この作品とは全く関係を持たないように見える話題から始めることについて御寛恕いただきたい。無論、その必要があってのことである。

 読者諸兄諸姉は、「古えの民(The Very Old Folk)」と題するラヴクラフトの小説を読まれたことがおありだろうか。
 G・イウリウス・ウェールス・マクシムスと署名した人物が、夢で見たという物語をメルモスなる人物に報告するという1927年11月2日付の書簡の体裁をとったこの作品の内容を、情報を補いつつ以下に要約する。(ネタバレ注意)

 共和制末期の時代。ローマの属領であったスペイン地方、ピレネー山脈の麓にあるポンペロという小さな田舎町は、迫りくる恐怖の影にすっかりおびえきっていた。恐怖の時候−−後世、ハロウィーンと呼ばれることになる10月最後の日が近付いていた。毎年、ハロウィーンの夜とベルテインの夜日になると、町の北側にあるピレネーの山々で、バスク族にも理解できない奇妙な言語を用いる黄色い肌と藪睨みの目を持つ古えの民−−ミリ・ニグリとも呼ばれる−−が忌まわしい儀式を執り行い、ラテン語で'Magnum Innominandum(大無名者)'と呼ばれる異形の神々を召喚するべく生贄を捧げるというのである。
 この地に植民したローマ市民たちは元より、ローマに帰順した住民たちは、祭壇のもうけられた山々の頂から鳴り響く虚ろな太鼓の響きにすっかり怯えているのだが、古くからこの地に住んでいるバスク族の羊飼いや農夫の中には、密かに古の民と通じ合い、自ら儀式に加わる者すら見られたのである。
 G・イウリウス・ウェールス・マクシムスと名乗る物語の書き手は、この夢の中でポンペロに勤務するローマの地方財務官ルキウス・カエリウス・ルフスとなっている。奇しくも、この人物はシリアやエジプト、エトルリアの秘儀伝承に通じ、ジェームズ・フレイザーをして『金枝篇』を書かしめた血なまぐさい慣習で知られるネミ湖畔のディアナ神殿に自ら赴き、神官と言葉を交わしたことすらあったのである。
 紀元前148年に執政官となったスプリウス・ポストゥミウス・アルビヌス・マーニュスがバッコス密儀の禁止令を発布し、数多くのローマ人たちが処刑された事件が未だ記憶に新しい時代でもあった。古えの民がもたらすであろう今そこにある災厄を危惧したルキウスは、バスク族の反発を懸念して手控えする同僚たちに業を煮やし、古えの民の儀式を中断させ、彼らを捕縛するよう総督プブリウス・スクリボニウス・リボを説得。彼を動かすことに成功する。
 時、既に10月最後の日の夕刻。今にも没しようとしている太陽の光を受け、山々の横原が赫々と燃えあがる中、おぞましくも規則正しい太鼓の音がぞっとするような音を響かせはじめた。第一百人隊長として自らも討伐軍に加わり、スクリボニウスと共に馬を進めるルキウスであったが−−突然、まだ山の下の方を進んでいた後続の馬や兵たちが悲鳴をあげ、道案内の若者はいつの間にか押し潰された肉塊となった。
 百戦錬磨のローマの軍団兵たちに言い知れぬ恐怖が広がり始めた頃、松明の炎が弱まったかと思うと、空に輝く星がひとつ残らず消え去ってしまう。
 耳を弄する太鼓の音がどろどろと響き渡る中、山頂でごうごうと燃え盛る篝火に照らし出される異形の獣どもの影−−ローマ兵たちが泣き叫ぶ中、老スクリボニウスのみが決然とした様子で立ちつくし、絞り出すような呟きをもらしたのである。
"Malitia vetus -- malitia vetus est -- venit -- tandem venit...(古えの邪悪−−古えの邪悪めが−−現れおった−−ついに現れおったわ…)"


アエネーイス (上) (岩波文庫)

アエネーイス (上) (岩波文庫)