2007年、南房総市白浜町−−

 千葉県南房総市白浜町の野島崎には、「頼朝の隠れ岩」という史跡がある。かつて、石橋山の合戦に敗れた源頼朝安房(房総半島)へと落ち延びた際に、風雨をよけて身を潜めたとされる海岸の岩屋である。
 以下、この「伝説の岩屋」の前に掲げられている看板から由緒書きを転載する。

西暦一一八〇年 伊豆から安房に渡って来た源頼朝公は勢力的(ママ)に動き、この野島崎に立ち寄り矢鏃で大岩に野島山の三文字を刻んだ。伝説であるが史実でもあると云われている。この地で武運再興を願掛けている時、突然の時雨に近くの岩屋に身を寄せ雨を凌いだ。この岩屋を「頼朝公の隠れ岩」と称し、この場所に深海に棲む創造の大蛸の海神を祀った。海神は海面を鎮め豊漁を授け、そして人々に幸せをもたらす事であろう。
大蛸の廻りには鮑やサザエを配し、特に中央の大蛸の殻の中に願いを掛けた賽銭を投げて見事、貝の中に入れば開運間違いなしとの事。
なぜならば貝運は開運への道の如し!

※タコの造形物に向かって、決してコインを強く投げないで下さい。願いを叶えるには心のやさしさと思いやりが必要です。

西暦二〇〇二年六月五日・白浜町

 さて、「深海に棲む創造の大蛸の海神」がいかなる神様であるかというと−−論より証拠。まずは御覧あれ。


 だごん様、だごん様じゃないか!


 かくして、2007年7月18日から4日間に渡る南房総調査行が敢行されたのであった。
 この日記は、当時、mixiの日記やクトゥルー神話コミュニティに投下した文章を再編集したものであることをあらかじめ断りおく。

海神様の素性

 とはいっても、さしたる苦労はなかったのだけれど。4日間の大半は、『南総里見八犬傳』縁の土地を訪れるのにその大半が費やされたというのが本当のところである。
 さて。「幸運の海神様」として頼朝の隠れ岩に設置されているこのレリーフの制作者を見つけ出すべく、まずは調査の基本として南房総市の商工観光課に問い合わせたところ、以下の回答が得られた。

・件の神像は、2002年に現在の場所に設置される以前、白浜町役場のロビーに飾られていた。(白浜町は2006年に他町と合併して南房総市になっている)
白浜町観光案内所に勤務されている樋口さんという女性職員の旦那様が制作された。

 南房総市役所ではこれ以上のことがわからなかったので、これ以後は現地取材となる。
 白浜町観光案内所に足を運んだのは白浜町滞在2日目の19日。地元をあげての海女祭りの準備に忙しい中、件の樋口さんからお話を伺い。ご主人のアトリエの場所を教えてもらうことができた。
 白浜町の西横渚(よこすか)のアトリエ、なばえ陶苑にて活動を続けられている陶芸家の樋口茂明氏が、かの神像を制作された御当人である。なばえ陶苑はちょっとした人気観光スポットになっているようで、観光情報サイトにも紹介ページが設置されていた。

「陶魂一徹」

 友人の書道家から贈られたという見事な書が、樋口氏のアトリエの入口近くにかかっている。しかしながら、御本人はそうした厳しい雰囲気からは遠い、いかにも「南国の人」という感じのファンキーな御老人で、突然訪ねた僕を快く陶房に迎え入れてくれた。彼が白浜町に居を構えたのは1979年のこと。陶芸については全くの独学で、30代半ばまでは商社マンだったそうだ。
 陶芸に目覚めたきっかけは、道端で拾った一片の陶器。その瞬間、頭の中が陶器でいっぱいになってしまい、矢も盾もたまらず未知の世界に分け入ったのだとか。まるで、ジョセフ・フェルディナンド・シュバルと理想宮のエピソードのようだ。
 さて、彼の口から語られた、かの奇ッ怪な神像の来歴は以下の通り。
 樋口氏は白浜町から「やすらぎの家」という老人向け慰労施設に設置される、温泉の壁を飾るオブジェの制作依頼を受けた。これが1981年のことである。
「利用客が元気になる、あっと驚くようなものを作りたい」
 そうは思いながらもなかなか「これ」といった着想が浮かばず、作業に着手できないままに納期が目前に迫ってきた。そんな中、頭を悩ませながら嵐の海岸を歩いていた彼は、猛烈に荒れ狂う雨と波の中、岩壁が大きな蛸のように触腕をくねらせながら自分の方に近づいてくるような感覚に捕らえられた−−。
「これだ!」
 仕事場に飛んでかえった樋口氏は、家族総出で制作に取りかかった。こうして出来上がったのが、今は頼朝の隠れ岩からぎょろりと観光客を睨みつける、蛸とも龍ともつかない海神様の像なのである。

夜刀浦への道

 さて、大荒れの浜辺で得たというヴィジョンから生まれた海神像だが、この話にはオチがある。
 残念ながら、このレリーフは納期に間に合わず、「やすらぎの家」には結局、『東海道五十三次』をモチーフにした壁画が飾られたということだ。樋口氏は既に貰っていた制作費を返還すると共に、大嵐のもたらした怪物の像を白浜町に寄贈したという話である。
 その後、長きに渡って白浜町の町役場のロビーに飾られていた海神像が白浜町の観光促進の目玉として引っ張り出されたのが2002年のこと。史跡としては少々地味だった「頼朝の隠れ岩」に、自分が20年前に制作した怪物の像が、開運と豊漁をもたらす海神として祀られたことを、樋口氏は事後に知らされたということだ。
 ヒトのつくりし神、「創造の大蛸」は、今日も昨日と同じく、明日も今日と同じく、白浜に打ち寄せる荒波をじっと見つめている。「彼」の前には貝殻で作られた賽銭箱が置かれ、開運を願う観光客が岩屋を訪れてはその前で手を合わせ、御利益を求めて幾ばくかの小銭を捧げるのだ。
 なお、石橋山の合戦で敗れた源頼朝が隠れ潜んだという「隠れ岩」がその代表例だが、白浜という場所は、伝統的に三浦半島からの逃げ延びてきた武者を数多く迎え入れてきた土地柄だ。和田の乱後、房総半島に落ち延びたという朝比奈三郎義秀もこの地から上陸したのかも知れないし、結城合戦に敗れた里見義実もやはり三浦半島からこの白浜へと渡り、房総半島における最初の居城をこの地に定めている。曲亭馬琴は、『南総里見八犬傳』の冒頭で、三浦から今しも海を渡ろうとする義実主従の前に、さながら彼をいざなうかの如く白竜が天に昇って南へと飛翔するというシーンを迫力たっぷりに描いている。

TwitterでのゆうきまさみさんのTweetで、頼朝は土肥の真鶴岬から船を漕ぎ出したことを思い出しました。彼に限っては、三浦半島からというわけではありませんね。(2010年4月30日22:00追記)

 以前、『Role&Roll』誌のクトゥルー神話TRPG特集号でミニサプリメント「夜刀浦綺譚」を書き下ろした際、「夜刀浦は体制に敗れた者など、本土でケガレとされたもの達が流れ着く場所」「そのため、本来は清浄な聖地が穢れ果ててしまった」ことを匂わせるような記述をしていたが、実はこの時点では山中他界、海中他界にまつわる民俗学的なスタンダードに従ったというだけのことで、余り深く考えていたわけではなかった。
 日本に数箇所しかない鯨の水揚げ港である和田浦港のある「和田町」が和田氏と関係の深い土地であることをすっかり失念していたし(この南房総行きのちょっと前、鯨の解体を見学に和田町へ足を運んでいたりする)、白浜町のこうした歴史のこともさほど強くは意識していなかった。
 その後、『秘神』を読み返したところ「和田」姓の登場人物を発見して何かが脊髄の上を這い登るのを感じ、白浜町に斯様な海神像が祀られていることを知って、今では「夜刀浦は本当にあるのではないか」と考えるようになっている。

Role&Roll(ロール&ロール) vol.20

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