2012年におけるクトゥルー神話ブームについての所感
フリーペーパーR25のweb媒体である「web R25」さんに、「クトゥルフ神話ブーム」についてコメントを求められました。記事の方はこちらにあがっていますが、実際に回答した内容を見てみたいというリクエストがありましたので、転載してみます。(質問文については適宜いじりました)
質問1:「クトゥルフ神話」とは何か?
クトゥルー神話とは、20世紀前半にアメリカで刊行されていた『ウィアード・テールズ』などのパルプ・マガジン(粗悪なパルプ紙を用いた安価な読み物雑誌)で活躍した作家、ハワード・フィリップス・ラヴクラフトを中心とする一群の作家達が、自分達が創造した太古の神々や魔導書などの固有名詞を互いの作品で共有していくという楽屋落ち的なお遊びを通し、意図せずして作りあげた架空の神話体系です。
複数の作家が同じ世界観を共有する創作スタイルを「シェアード・ワールド」と呼びますが、クトゥルー神話の場合は必ずしもそうではなく、同じ固有名詞を用いるについても、その背後にある設定や世界観は個々の作家の裁量にゆだねられました。
そのため、私は「シェアード・ワード」と呼んでいます。
ラヴクラフトは、架空の神様や書物について自分の作品中で言及するというやり方を、架空の神話体系「ペガーナ神話」の創造者であるダンセイニ卿の作品から学びました。「クトゥルーの呼び声」「ダンウィッチの怪」などの、ニューイングランド地方を舞台とする作品を手がけていた頃、ラヴクラフトはその作品群を〈アーカム・サイクル〉と呼びました。この時点ではまだ、自らの作品中で言及している神話について、体系めいたものを考えていなかったようです。しかしながら、1930年代頃になると徐々に何らかの構想が浮かび始めていたようで、「狂気の山脈にて」という作品の執筆にあたって著した覚え書きの中に〈クトゥルーその他の神話〉という言葉が現れます。
その後、〈クトゥルー神話〉という用語はラヴクラフトやスミス、オーガスト・W・ダーレスといった友人たちの間で使われるようになりました。ラヴクラフトの死後、アーカム・ハウスという出版社を設立したダーレスが、ラヴクラフトの物語群を含む神話体系の名称として、改めて〈クトゥルー神話〉という語をアピールしたのです。
クトゥルー神話は、ラヴクラフトの作品を核としているのは事実ですが、決して彼一人のものではありませんでした。スミスやロングといった作家たちは、ラヴクラフトとあらかじめ示し合わせることもあれば、そうでないこともありました。
こうした作家たちは、ラヴクラフトへの親愛の情を示すため、彼の作品から固有名詞や設定を拝借し、ラヴクラフトもまた同じように他の作家からネタを取り込みました。彼らにとって、クトゥルー神話はコミュニケーション・ツールでもあったわけです。
質問2:クトゥルフ神話の名作、定番のストーリーなどを知りたい
クトゥルー神話の名作として、避けて通れない作品がラヴクラフトの「クトゥルーの呼び声」です。1926年の夏に執筆された後、『ウィアード・テールズ』1928年2月号に掲載された作品です。フランシス・ウェイランド・サーストンというボストン在住の青年が、プロヴィデンス(ロードアイランド州の州都であり、ラヴクラフトの生まれ故郷)で不審死した大叔父ジョージ・ギャマル・エインジェル教授の残した手記を辿り、彼がライフワーク的に探究していた太古の邪神−−クトゥルーと、その崇拝者たちの恐怖に深入りしていく、という物語です。複数の人間の供述や新聞記事の引用をたくみに利用したドキュメンタリータッチの緊張感溢れる物語で、それ以前に発表されていたラヴクラフト作品において時折示唆されていた架空の神話体系について、初めて真っ向から取り扱った作品でした。
『クトゥルー1』(青心社文庫)に収録されております。
- 作者: H.P.ラヴクラフト,大滝啓裕
- 出版社/メーカー: 青心社
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また、ギレルモ・デル・トロ監督、ジェームズ・キャメロン製作、トム・クルーズ主演という豪華スタッフ陣で映画化が発表され(現在、ユニバーサルとの条件交渉をめぐってペンディング)、話題を集めた「狂気の山脈にて」があります。
南極大陸の探検の歴史が幕を開けた1930年を舞台に、ミスカトニック大学(ラヴクラフトの作品にしばしば登場する架空の大学です)の学術探検隊が南極大陸で遭遇した恐怖を描く作品です。1930年に創刊されたSF雑誌『アスタウンディング・ストーリーズ』に掲載され、アーサー・C・クラーク(『2001年宇宙 の旅』など)をはじめ著名なSF作家たちにも大きな影響を与えました。
- 作者: H・P・ラヴクラフト,大滝啓裕
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クトゥルー神話の名作と呼べる作品は数が多すぎて、かいつまんで紹介することも難しい状態です。私は現在、クトゥルー神話作品のカタログ本の制作をライフワーク的に進めておりますが(2006年刊行の『クトゥルー神話ダークナビゲーション』(ぶんか社)の後継書)、こちらで紹介する作品は600以上に及びます。
原典に触れたいのであれば、青心社の『クトゥルー』全13冊、東京創元社の『ラヴクラフト全集』全9冊、国書刊行会の『新編 真ク・リトル・リトル神話大系』全7冊が刊行されています。
質問3:クトゥルフ神話の楽しみ方はどういうもの?
1980年代頃から、日本のクトゥルー神話ジャンルはライトノベル(当時はヤングアダルト、ジュヴナイルなどと呼ばれていました)を皮切りに、コミック、ゲームなどへ幅広く広がってきました。
特に、1986年にホビージャパンから日本語版が発売されたテーブルトークRPG『クトゥルフの呼び声』(現在は『クトゥルフ神話TRPG』としてエンターブレインから発売中)がきっかけとなって、怪奇・SF小説の読者以外にも一気にファン層を拡大しました。『図解 クトゥルフ神話』『エンサイクロペディア・クトゥルフ』(共に新紀元社)など、このゲームの周辺資料として発売された数多くのガイドブックの存在も、ゲームそれ自体には興味のない読者層から重宝されています。
クトゥルフ神話TRPG (ログインテーブルトークRPGシリーズ)
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これらのガイドブックに目を通して最低限の知識を身につけた後、様々な作品(小説、コミック、ライトノベル、アニメなど)に散らばっているクトゥルー神話ネタを見つけ出し、満足感を得るという楽しみもまた、クトゥルー神話の醍醐味でしょう。
TRPGはちょっと敷居が高いという方には、アークライトから発売されているボードゲーム『アーカム・ホラー』『マンション・オブ・マッドネス』をはじめ、クトゥルー神話を題材としたボードゲームが多数発売されています。
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質問4:ネット上で「クトゥルフ神話」の名をよく見かける。ブームが起きているのであれば、きっかけは何?
2009年に発売された『這いよれ! ニャル子さん』は、クトゥルー神話のカジュアル化を決定づけるものではありましたが、ブームそのものは21世紀に入るか入らないかの頃からじわじわと始まっていました。
直接の引き金になったのは2003年に成年向けPCゲームとして発売され、後に家庭用ゲーム版、アニメ版が制作された『斬魔大聖デモンベイン』という作品です。
「クトゥルー神話+スーパーロボット」というコンセプトの作品で、従来の〈クトゥルー神話もの〉の枠組みを打ちこわし、「ここまでやってもいいのか」という安心感を受け手よりもむしろ作り手側に与えた作品と言えます。
その後、まずは成年向けPCゲームのジャンルにおいてクトゥルー神話関連作品が数多く制作され、オタク・カルチャーにおける定番の〈ネタ〉として定着していきます。
この流れを一気に加速させ、現在のブームへと押し上げた最大の功労者は、ニコニコ動画ということになるでしょう。より具体的に言えば、2007年10月頃に発祥した「ニコマス」と呼ばれる文化です。バンダイナムコの人気ゲーム『アイドルマスター』のキャラクターを使用したMADムービーと呼ばれるファン創作で、2008年に入ったあたりで「卓ゲM@Ster」−−『アイドルマスター』のキャラクターを用いたTRPGリプレイ−−というサブジャンルに発展しました。
リプレイとは、TRPGの実際のプレイ風景を会話形式で再現したものです。
この「卓ゲM@Ster」で最も人気を集めたのが、前述のTRPG『クトゥルフ神話TRPG』を題材とする作品でした。現在のクトゥルー神話ブームの起爆剤となったのは、『這いよれ! ニャル子さん』よりもむしろ、こちらの方と思われます。(ちなみに、クトゥルー神話関連製品の販売数が目に見えて伸び始めたのは、『ニャル子』アニメ放映以前、昨年秋のあたりからという書店の報告があります)
質問5:近年のクトゥルフ神話ブームの動向、イベントなどについて知りたい
既に申し上げた通り、ニコニコ動画での盛り上がりがまずは存在します。
今年の春に創刊されたホラー小説専門雑誌『ナイトランド』ではクトゥルー神話作品を主軸に据えていくということを打ち出していまして、新宿のロフト・プラス・ワンでトークショウが開かれました。
http://www.trident.ne.jp/j/NL/
また、このGWに開催されたSFファンの集い「SFセミナー2012」でもクトゥルー神話の講義が開設されるなど、各方面で関心が高まっているのは間違いないようです。
http://www.sfseminar.org/
とりわけ、『ニャル子さん』アニメ放映開始直後には、青心社文庫『クトゥルー1』と、創元推理文庫『ラヴクラフト全集1』がそれぞれ爆発的に売れたのだと版元から聞いています。
『ニャル子さん』に限らず、ゲームやコミックで興味を持ったファンは数多く存在しますが、こうして原典にまで手を出した方々をどのようにフォローしていくか……このあたりは版元、そして僕のような関連書の制作者にとっても大きな課題になっています。
質問6:クトゥルフ神話を楽しむことができるのはどんな人?
「どのような人が」−−となりますと、なかなか難しいですね。それこそもう、好みの問題でしかないので。
ホラー好きでもクトゥルー神話は肌に合わないという人がおりますし、そもそも〈クトゥルー神話〉と総称されている物語自体が実に多彩な広がりを見せています。
既に申し上げた通り、何しろ数百の関連作品が存在していますので、自分の肌に合ったものを見つけることができれば良いのじゃないかと思います。
朝日ソノラマ社から刊行されていたSF・特撮情報雑誌『宇宙船』の1985年4月号に、「クトゥルフ神話入門講座」というものが掲載されています。
執筆者はクトゥルー神話ファンとして知られる菊地秀行氏で、このようなことを仰っています。
「入口なんて何だっていいのだ。「エイリアン」やH・R・ギーガーの画集"ネクロノミコン"だっていっこうにさしつかえはない。また、どこかの雑誌の恐怖小説特集に再録されていたヘーゼル・ヒールド(ラブクラフトの弟子のひとり)の短編だっていい。たしかに、その作品そのものの質にも関わってくるが、肝心なのは、入ってからどれだけその世界にのめり込めるか、そしてどれだけ世界を共有できるか、である。」
どこかしら、クトゥルー神話にちょっとでも絡んだ作品に遭遇して、クトゥルーや『ネクロノミコン』といったワードに興味を抱くことができたなら、そこから入ってきてくれると嬉しいな、という感じです。
また、1980年代以前に日本であれこれ紹介されていたクトゥルー神話の周辺事情についても、僕を含む日米の研究者たちによって大分アップデートされておりまして、昔、クトゥルー神話のファンでそれなりに関連書を読みこんでいたというマニアの方も、この機会に最新の文献に目を通していただければと思っています。
お勧めは以下の本です。
- 作者: リン・カーター,朝松健,竹岡啓
- 出版社/メーカー: 東京創元社
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追記:
文中、「コズミック・ホラー」の「コ」の字も「ホ」の字もないのは、「クトゥルー神話≠コズミック・ホラー」であるという僕の考えに基づきます。