〈ヨス=トラゴン〉設定についての覚書(中篇)
朝松先生のクトゥルー神話×ナチス連作『邪神帝国』が、このほど創土社のクトゥルー・ミュトス・ファイルズにて復刊されました。これを記念して、同人誌『夏冬至点』2011年冬号に掲載した拙稿「〈ヨス=トラゴン〉覚書」を、一部誤字などを修正した上で全文公開させていただきます。
3・〈ヨス=トラゴン〉のカルト
旧支配者によって崇拝されたという〈ヨス=トラゴン〉。それを裏付ける作品のひとつが、1993年12月に刊行された『崑央の女王』(角川書店)である。この作品は、中華人民共和国黒竜江省のジャムス(佳木斯)市の近郊で発掘された、殷代に遡る少女のミイラを巡るバイオ・ホラーもので、ミイラの正体は黄帝(旧神と思われる)によって「崑央」と呼ばれる地下世界に封印された祝融族(『山海経』に言及される獣面人身の種族で、炎帝の子孫とも言われる)の女王とされた。外見上の違いはあるが、この祝融族はC・A・スミスの「七つの呪い」などの作品で言及される、ヴァルーシアの蛇人間と同系統の爬虫人類と考えられ、逆三角形の顔を持つなどの描写は〈ヨス=トラゴンの仮面〉のそれを彷彿とさせる。この「崑央のクイーン」が、死の間際に〈ヨス=トラゴン〉の名前を叫んでいるので、古代の崑央においてこの神が崇拝されていたのだろう。
また、朝松氏が原作を提供したコミック『マジカルブルー』(リイド社)では、黒魔術結社〈O∵D∵T∵(東方黎明団)〉が、八岐大蛇と同一視した上で〈ヨス=トラゴン〉を崇拝している。〈O∵D∵T∵〉もまた、朝松作品にしばしば登場する黒魔術結社で、その来歴については前述の『魔犬召喚』と『屍食回廊』(2000年11月、角川春樹事務所)に詳しい。
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〈O∵D∵T∵〉の創設者は、後に日本の神道系カルト太元教の二代目教祖となる霊能者・騎西十三郎とされている。*1
京都帝大を卒業後、1898年に渡米した十三郎は、講演のためシカゴを訪れていたクリンゲン・メルゲルスハイムと1903年6月に邂逅し、彼の指導を受けて魔術結社〈O∵D∵T∵〉を結成した。十三郎は1911年に帰国する際に結社の首領を辞しているが、20世紀末に改めて日本支部が設立されたことが『魔犬召喚』において語られている。〈O∵D∵T∵〉における〈ヨス=トラゴン〉崇拝は、メルゲルスハイムの直系ということになるだろう。
なお、メルゲルスハイムには『アッツォウスの虚言』という著書がある。1911年、メルゲルスハイムがチューリッヒで行った儀式において、大悪魔アッツォウスから受け取った黙示を書き著したというもので、『魔犬召喚』の主人公の一人であるオカルト・ライターの村松克時はかつて、出版社の編集者時代にこの本の日本語版を刊行したことになっている。作品中での言及はないが、この『アッツォウスの虚言』に〈ヨス=トラゴン〉についての言及が含まれていた可能性は高い。何故かといえば、『アッツォウスの虚言』の元ネタはアレイスター・クロウリーの『法の書』で、村松克時のモデルは『法の書』日本語版の刊行に携わった朝松健(本名は松井克弘)自身に他ならないからだ。そして、クロウリーの弟子であるケネス・グラントは『法の書』とH・P・ラヴクラフト作品の固有名詞の類似について指摘しており、朝松氏はそのことを記事として紹介している。*2
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他に、〈ヨス=トラゴン〉の崇拝者についての言及がある朝松作品として、『魔障』(角川春樹事務所)に収録されている「追ってくる」がある。ユダヤの魔術師パレスティナのハラハーは、8人の弟子から毒を盛られた際、死の間際に自らの命を「九大地獄の王子ヨス=トラゴン」に捧げて「恐怖を与えるもの」と呼ばれる処刑室を作ったとされる。ハラハーは、9人目の弟子ケレスリアのイサクに処刑室の利用方法を教え、彼を裏切った8人の弟子たちにおぞましい復讐を行ったのである。
この作品は『小説コットン』1991年8月号に掲載された同名作品を大幅に書き直したものということで、残念ながら筆者は元の作品を読んでいないため、「九大地獄の王子」という記述が存在していたかどうかは未確認である。
この「九大地獄」は前述の『クシャの幻影』にも現れる言葉だが、それが何を意味しているかについては作中の記述からはわからない。
「八大地獄」という仏教用語は存在するが、アトランティスやユダヤ教の文脈に現れるものが仏教由来の言葉とは考えにくい。
ここで言う「九大地獄」は、ダンテ・アリギエーリが『神曲』地獄篇で示した地獄の最下層、「裏切り者の地獄」とも呼ばれる第九圏を意味するものと筆者は解釈する。「ジュデッカ」と呼ばれる第九圏の第四円では、神に叛旗を翻した魔王ルチフェロが氷の中に囚われており、ルチフェロの口にはイスカリオテのユダやブルートゥスら裏切りの罪を犯した者たちが噛み締められ、永遠の苦痛に晒されているのである。裏切り者の8人の弟子たちに対する復讐のために、魔術師が命を捧げた〈ヨス=トラゴン〉の支配領域として、これ以上に相応しい場所はないだろう。
また、『秘神界─歴史編─』に収録されている「聖ジェームズ病院」では、クトゥグァや〈ヨス=トラゴン〉と契約した神秘主義者マイケル・L*3が、これらの邪神の力を用いて水神クタアトと契約した黒魔術師フランク・"ペスト"・ジンメルと対決する。
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4・〈ヨス=トラゴン〉と真言立川流
朝松健は、作家としてのデビュー作である『逆宇宙ハンターズ』以来、平安時代の実在の邪教である真言立川流を、日本におけるクトゥルー神話カルトという前提で作中に取り上げてきた。『逆宇宙ハンターズ』の敵役は苦止縷得宗という真言立川流の流れを汲むカルトであり、この時点ではまだ名称上の元ネタでしかなかったように思われるが、『肝盗村鬼譚』(1996年、角川書店)をはじめとするその後の作品をむ限りでは、明確にクトゥルー神話と結び付けられている。
『肝盗村鬼譚』は、北海道の南西、函館の近くにある肝盗村という寒村を舞台とする、朝松版「インスマスを覆う影」とも言うべき作品で、この村の菩提寺である萬角寺は、真言立川流の流れを汲む根本義真言宗の本山とされている。
萬角寺の本尊は誉主都羅権明王──すなわち、ヨス=トラゴンそのものである。近隣の住民たちは、肝盗村の地下には悪神ヨス=トラが潜み、萬角寺のある夜鷹山の地下にはキモトリ(=ショゴス)という魔物が、沖合いにはウミストニ(人間の姿に化けることもできる〈古のもの〉の変種、あるいは独自のクリーチャー)が潜んでいると噂し、この村を忌み嫌っているということだ。
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誉主都羅権明王の名はまた、「千葉県夜刀浦市」という架空の地方都市を共通の舞台とする朝松健編纂のアンソロジー『秘神』(1999年、アスペクト)にも言及される。夜刀浦は弾圧された真言立川流の僧侶たちが逃れた場所で、呪法によって封印されていた地下空洞には、黒曜石で作られた美男美女、獣の三面を備えた誉主都羅権明王の魔像が存在する。鹿戸龍見という名の行者の姿をとって現れた偶忌荒祝部毒命(=ナイアーラトテップ)の言葉を額面通りに受け取るならば、誉主都羅権明王とは荼吉尼天、飯綱天などの名前で呼ばれる魔王の呼び名のひとつであり、蟆雷悪幣兇鳥(=ビヤーキー)を従える神とされる。ビヤーキーは、従来のクトゥルー神話設定ではもっぱらハスターの奉仕種族とされているが、ヨス=トラゴンに仕える者たちも存在するようだ。
この夜刀浦を舞台とする朝松氏の新作『弧の増殖』(2011年2月、エンターブレイン)では、異端の国学者・流基葡鱗の主張として「遥か神代、星辰界からこの夜刀浦に「神」が降り立った。その「神」こそが真の天地の主なのだが、それを認めたがらぬ高天原の神々はこの「神」を力ずくで封印した。封印された痕は今も見遥ヶ丘に尾崎巨石として残っている」という設定が開示され、ヨス=トラゴンの封印地が現在の千葉県夜刀浦市なのだと示唆される。
この作品では、ラヴクラフトの「闇に囁くもの」に登場する〈ユゴスよりのもの〉たちがヨス=トラゴンの崇拝者として描写され、この地に封印されている神の力でユゴスから〈生ける電磁波〉と呼ばれる情報生命体(?)、ィルェヰックを送り出そうと試みている。
以上、駆け足でまとめてみはしたが、朝松作品における真言立川流の設定は非常に入り組んでいるため、設定周りの整理には今しばらくの時間が欲しいところだ。
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