H・P・ラヴクラフトの元ネタ探し

 Twitterでの過去の発言などを再利用しつつ、本日も更新してみます。

「霧の高みの不思議な家」「未知なるカダスを夢に求めて」などのラヴクラフト作品に、その威厳に満ちた姿を現している〈大いなる深淵の王〉ノーデンス。
 古代イギリスで崇拝された癒しの神−−というよりも、イギリスにまで殖民していたローマ人によって崇拝された、アイルランド神話のヌアザのローマ神名というのが正確でしょう。
 ラヴクラフトによって〈古きもの Elder One〉との関連性が示唆され、フランシス・T・レイニーによりダーレスの言う〈旧神 Elder One、Elder God〉に組み込まれたこの神を、ラヴクラフトはどこから引っ張ってきたのでしょうか。
 よく言われているのは、アーサー・マッケンの「パンの大神」からの影響です。この作品で、ギリシャ神話の牧羊神パンの名で呼ばれる異質な精神的存在の別名が、ノーデンスとされていました。
 しかし、マッケン描くノーデンスは、ラヴクラフト作品に見られる、海豚の引く巨大な貝殻の戦車に乗り、神々を従えた老人の姿とは似ても似つかないものです。
 色々と調べていくうちに、ジェラルド・マッシーという詩人兼エジプト研究者(エジプトロジスト)の著作に辿り着きました。マッシーはまた、「ドルイド古代教団」なるカルトの主宰だったなどと噂される怪人物です。
 彼は聖書の物語とエジプト神話の類似性、特にイエス・キリストとホルス神の相似について着目し、"The Book of Beggining(始原の書)"を1881年に刊行しています。
 実際の話、古代のエジプトは、キリスト教の重要地でした。
 エジプトのアレクサンドリアは初期キリスト教の拠点の一つであり、7世紀に陥落してアラブ世界に組み込まれるまで、総主教座が置かれていました。また、聖母マリアが幼いイエスを抱く「聖母子像」のテーマは、キリスト教以前、エジプトにおいてホルス(ハルポクラテス)を抱イシスの像から影響を受けたと言われています。
 2009年の「海のエジプト展」でも、イシス−ホルスの母子像が多数展示されていました。マリアとイエスの聖母子像が現れるのはアレクサンドリアにあったこうした像が、ローマ・キリスト世界で模倣されたのではないかという説が、有力視されています。

 さて。"The Book of Beggining"の第8章のタイトルは"EGYPTIAN DEITIES IN THE BRITISH ISLES(イギリス諸島におけるエジプトの神々)"。物凄くかいつまむと、イギリスのドルイド信仰の源流は古代エジプトにあるのだ、という文章です。
 今のところソースはありませんが(というかちゃんと調べていない、宿題のひとつ)、ラヴクラフトあるいはブロックの元ネタ本のひとつだったのではないかと疑っています。まずは、マッシーの名前について言及した書簡を探すところからですね。
"A BOOK OF BEGININGS"がラヴクラフトのネタ本であろうという根拠のひとつは、その第8章におけるノーデンスの記述。そこに、英グロスタシャーのリドニーで発掘された「深淵の神」ノーデンスの神殿についての記述があるのです。
 リドニーは、ラムジー・キャンベル作品に縁の深いグロスターシャーにある町です。
 ノーデンス神殿は現地では「小人の教会」と呼ばれていて、1805年に発掘が始まり、呪いのタブレットや神像などが見つかりました。"A Book of〜"には、海神たちを従え、4頭の馬に引かせた戦車に乗ったノーデンスの姿を彫り込んだプレートの挿絵が記載されていたようです。



大きな地図で見る
リドニーのノーデンス神殿(最大に拡大してください)


 この本にはまた、遺跡から発掘されたラテン語の銘文も載っています。そこには、'God of the abyss(深淵の神)'というノーデンスの尊称が含まれていました。
 ラヴクラフトがこの本を読んでいた可能性は、非常に高いと思われます。
 ちなみに、どうしてキングスポートにノーデンスの地上での棲家があるのかという話については、僕なりの仮説があります。『萌え絵で巡る! クトゥルー世界の歩き方』『ゲームシナリオのためのクトゥルー神話事典』で紹介しましたので、そちらを御覧いただければと。

萌え絵で巡る! クトゥルー世界の歩き方

萌え絵で巡る! クトゥルー世界の歩き方

「関連作品・書籍を読む優先順位」についてのスタンス

 クトゥルー神話の解説書・研究書を読む以前に、まずH・P・ラヴクラフトの作品(東京創元社ラヴクラフト全集』など)を全部読むところから始めるべきでは、とのご意見を見かけました。
 このあたりについての森瀬のスタンスは、以前、はてな日記に書いています。

質問6:クトゥルフ神話を楽しむことができるのはどんな人?

「どのような人が」−−となりますと、なかなか難しいですね。それこそもう、好みの問題でしかないので。
 ホラー好きでもクトゥルー神話は肌に合わないという人がおりますし、そもそも〈クトゥルー神話〉と総称されている物語自体が実に多彩な広がりを見せています。
 既に申し上げた通り、何しろ数百の関連作品が存在していますので、自分の肌に合ったものを見つけることができれば良いのじゃないかと思います。
 朝日ソノラマ社から刊行されていたSF・特撮情報雑誌『宇宙船』の1985年4月号に、「クトゥルフ神話入門講座」というものが掲載されています。
 執筆者はクトゥルー神話ファンとして知られる菊地秀行氏で、このようなことを仰っています。


「入口なんて何だっていいのだ。「エイリアン」やH・R・ギーガーの画集"ネクロノミコン"だっていっこうにさしつかえはない。また、どこかの雑誌の恐怖小説特集に再録されていたヘーゼル・ヒールド(ラブクラフトの弟子のひとり)の短編だっていい。たしかに、その作品そのものの質にも関わってくるが、肝心なのは、入ってからどれだけその世界にのめり込めるか、そしてどれだけ世界を共有できるか、である。」


 どこかしら、クトゥルー神話にちょっとでも絡んだ作品に遭遇して、クトゥルーや『ネクロノミコン』といったワードに興味を抱くことができたなら、そこから入ってきてくれると嬉しいな、という感じです。
−−「2012-05-25 R25さんの質問に対する回答内容」より抜粋


 長いこと、「クトゥルーのク」「ネクロノミコンのネ」に少しでも掠る小説・コミック・映像作品・ゲームを渉猟してきました。その数は、日本国内で商業刊行されたものだけで優に600作品(シリーズ単位)を超えています。ラヴクラフトについてはS・T・ヨシの詳注つきペーパーバックはもちろん、アマチュア誌の方はちょっとムリですけれど"Weird Tales"はじめ初出誌にも手を出し始めました。
 昨年末からは、関連作品の載っているアメリカのホラー・コミックス(古いものは1950年代)にも進出しています。
 その上で、物凄く乱暴かつ老害丸出しの本音を申しますと−−クトゥルー神話好きならばなるべく読んでいて欲しいものではありますけれど、H・P・ラヴクラフト作品を読んでいようがいまいが、全体数から見れば大した違いはありませんですよ。(・,,,・ )

『グラーキの黙示録』の最新設定

 ラムジー・キャンベルの〈最新作〉、"The Last Revelation of Gla'aki(グラーキ最後の黙示録)"をようやく入手しました。

The Last Revelation of Gla'aki

The Last Revelation of Gla'aki

 発売日は2013年6月1日となっているのですが、なかなかネット書店で出回らず、翻訳家の尾之上浩司氏やダーレス研究家の竹岡啓氏などと、「本当に出ているんだろうか……」とちょくちょく話題にしていたのでした。
 キャンベルは、H・P・ラヴクラフトの時代にはいささか遅れましたが、アーカム・ハウスの熱心な読者たちの中から作家として引っ張りあげられた、英国在住の第二世代クトゥルー神話作家の一人。グラーキ、ダオロス、イゴーロナクなどの邪神や、禁断の書物『グラーキの黙示録』、英国のグロスターシャーにあるブリチェスターやゴーツウッドなどの地方都市や町を生み出した怪奇作家です。
 まずは、リンク先で表紙イラストを御覧ください。『クトゥルフ神話TRPG』などでは、いわゆる「ガマ口」のグラーキですが、筒の内側を牙がぐるりと取り囲んだデザインになっています。この段階で、ちょっとした衝撃が駆け巡ったものでした。
 ちなみに、竹岡氏は既に読了したそうで、「これはまさしくキャンベル版『アーカム計画』」「フリッツ・ライバーの『闇の聖母』に雰囲気が似ている」(大意)とのことです。

 さて、"The Last Revelation of Gla'aki"。山頂が雲の上に隠れて見えない勢いで仕事を積み上げ過ぎたので、20ページほどを読み進めたところでストップしているのですが、冒頭の3ページだけでこれまでに見たことのない『グラーキの黙示録』にまつわる書誌設定が次々と提示されて、例えようのない興奮を覚えました。
 何しろ、『グラーキの黙示録』生みの親たるラムジー・キャンベル自身の作品、そして新設定です。
 気にするなというのが無理というもの。


 以下の情報は、ラムジー・キャンベル"The Last Revelation of Gla'aki"の冒頭に掲げられた、レナード・フェアマン(ブリチェスター大学アーキビスト、『稀鳥:ブックハンター・マンスリー』客員コラムニスト)による文章に基づくものです。


『グラーキの黙示録』の唯一の印刷本は、1865年にマッターホルン・プレス(ロンドンのハイゲート)から刊行された9巻本です。
 件の9巻本の編者は「パーシー・スモールビーム」となっているようですが、これは偽名であろうとレナード・フェアマンは書いています。なお、オカルトライターのジョン・ストロングによる指摘として、このスモールビームなる人物が、「Gla'aki」の「'」を読みやすくするために省略したという話も出てきます。
 フェアマンは更に、「リヴァプール版」は、RPGゲーマーのこしらえた設定で、マッターホルン・プレスとは無関係という物凄いことを言い出します。最初のページで、いきなりCoC設定への肘鉄ですよ。(本当にそういうことが書いてあります)
 ちなみに、『グラーキの黙示録』について、「全9巻で1865年にリヴァプールフォリオ判で出版」と解説しているのは、ケイオシアムから発売されている『クトゥルフ神話TRPG』の副読本の一冊、『クトゥルフ神話TRPGキーパーコンパニオン』です。
 キャンベル作品の設定については、彼の許諾を受けて制作されたソースブック"Ramsey Campbell's Goatswood and Less Pleasant Places: A Present Day Severn Valley Sourcebook and Campaign for Call of Cthulhu"でまとめられていますが、こちらにはリヴァプール版についての記述はありません。

クトゥルフ神話TRPG キーパーコンパニオン 改訂新版 (ログインテーブルトークRPGシリーズ)

クトゥルフ神話TRPG キーパーコンパニオン 改訂新版 (ログインテーブルトークRPGシリーズ)

Ramsey Campbell's Goatswood and Less Pleasant Places: A Present Day Severn Valley Sourcebook and Campaign for Call of Cthulhu

Ramsey Campbell's Goatswood and Less Pleasant Places: A Present Day Severn Valley Sourcebook and Campaign for Call of Cthulhu

  • 作者: Scott David Aniolowski,Gary Sumpter,Richard Watts,J. Todd Kingrea,Clifton Ganyard,Rob Malkovich,Steve Spisak,Mike Mason,David Mitchell
  • 出版社/メーカー: Chaosium
  • 発売日: 2001/10/01
  • メディア: ペーパーバック
  • この商品を含むブログを見る

 このマッターホルン・セットは200人に届かない数の予約購読者のみに販売されました。なお、『グラーキの黙示録』の出版は、マッターホルン・プレスの唯一の仕事であったように思われるということです。
 同社の創設者は、1862年に復活したケンブリッジ大学ゴースト・クラブと結び付けられており−−。このクラブは実在の心霊研究団体で、1855年に同大学のトリニティ・カレッジで発足した組織の二代目です。公式サイトを見ると、過去のメンバーとしてチャールズ・ディケンズ、ピーター・アンダーウッドなどの名前が並んでいるようです。
『グラーキの黙示録』の9巻本は、ブリチェスター近くのディープフォール・ウォーターのあたりで活動していた怪しげなカルトの手になる11巻本を底本としているようです。これは、キャンベルの「湖畔の住人」で説明されているグラーキのカルトでしょうね。『クトゥルフ神話への招待 古きものたちの墓』に収録されています。

『ゲームシナリオのためのクトゥルー神話事典』にも書きましたが、ラムジー・キャンベルはすでに、ロバート・M・プライスの『グラーキの黙示録』設定を21世紀の作品でわざわざ上書きするという前例もちです。
 ちなみに、マッターホルン・プレスの語が出てきた時に、既存の作品で言及があったかどうか、念のためGoogle様にお聞きしてみたところ、英語WikipediaのGlaaki項目に記述がありました。
 どうやら"The Last Revelation of Gla'aki"発売日の数日後に付け加えられたようで、何とも素早いファンがいるものだと更新履歴を確認したところ、更新者のユーザ名は「Ramsey Campbell」でした。わーお。
『グラーキの黙示録』については、この他にも英国の魔術師アレイスター・クロウリーの蔵書に含まれ、彼の霊感の源泉になったというびっくりするような情報が次々出てきます。興味のある方は、取り寄せてみると良いでしょう。

日本クトゥルー神学の黎明

『ゲームシナリオのためのクトゥルー神話事典』にはH・P・ラヴクラフトとC・A・スミスの書簡に基づく、クトゥルー神話の神々の系図を掲載しました。青心社の『クトゥルー』シリーズにも掲載されていますが、従来訳では「悪鬼のヨガシュ」と書かれていたところを「〈食屍鬼〉ヨガシュ」に改めるなど、翻訳自体は最新のものです。
 この他にもう一点、リン・カーターの諸作品で示されている設定をソースに、独自に描き起こした神々の系図を掲載しています。カーターといえば、彼が1957年にファンジンに寄稿した「クトゥルー神話の神神」が日本でも定番的資料として長年重宝されてきました。
 しかしながら、彼はその後数十年にわたってクトゥルー神話設定の補完・整理・体系化を続けていて、70年代以降の作品に見られる諸々の設定は「神神」と全く違うものになっていたりします。
 いくつか例をあげれば、〈ユゴスよりの菌類〉がハスターに従属していたり、ヴルトゥームがクトゥルーの弟だったり、実に子だくさんのウボ=サスラがアザトースの双子の兄弟とされていたり−−。
 ところで、今回の本には載せておりませんでしたが、ラヴクラフト、スミス、カーターのものとも更に異なるクトゥルー神話の神々の系図が存在します。
 ご紹介しましょう。風見潤クトゥルー・オペラ」シリーズの第1巻に掲載されている系図です。


(神名表記は『ゲームシナリオのためのクトゥルー神話事典』に準拠)

 確かに、ラヴクラフト、スミスのものとは全く異なる系図ですが、これがなかなかよく考えられているのです。
 クトゥルー神話紹介の黎明期において、数少ない「神話ガイド」であったフランシス・T・レイニー「クトゥルー神話小辞典」、リン・カーター「クトゥルー神話の神神」と比べてみると、双方の記述を参照しながら、うまくまとめた系図なのだとわかります。
 以下、いくつかのポイントをピックアップして解説します。

  • 「ハスター、シュブ=ニグラス、ナイアルラトホテプ、アザトース、ガタノソア、クトゥガがアブホース、ウボ=サスラの子供」

 これは、アブホースとウボ=サスラがグレート・オールド・ワンの親とする「神神」に準拠。ダーレス&ラヴクラフト「暗黒の儀式」の記述に基づきます。
 ヨグ=ソトース、ツァトーグァ、クトゥルーは宇宙からやってきたので、ウボ=サスラの子供たち(グレート・オールド・ワン)に含まれないというのもカーター「神神」設定です。アザトースの扱いが不明なのも本当。風見氏は子供たちに組み込んだようですが。

 ニョグタは呼び名のひとつがナイアルラトホテプと被っていることから、「神神」で「化身なのかも?」と書かれています。バイアグーナも同様。風見氏はとりあえず化身ではなく子供にした模様。
〈無貌のもの〉バイアグーナは、ロバート・ブロックの「無貌の神」「哄笑する食屍鬼」(共に1936年の作品)でちらりと言及される神性です。
 このバイアグーナ、アメリカでは殆ど無視されていて(登場作品は一応存在します)、CoCでも拾われませんでした。80年代頃からの日本のクトゥルー神話小説読みには、「クトゥルー・オペラ」などの影響で知っている人が結構いるかも知れません。
 個人的には、ブロックはバイアグーナという名称を、ナイアルラトホテプ(明らかにエジプト系の名前ですね)の「神名」としてこしらえたのではないか−−ということを考えていますが、如何でしょうか。書簡などを詳しく調べたわけではありませんので、今後の課題のひとつです。

  • 「イタカ、ロイガー、ツァールがハスターの子供」

 シュブ=ニグラスとハスターを夫婦にしたのもカーターの「神神」ですね。妻がいるからには子供もいるだろうということで、風の精カテゴリの神々を子供ということにしたのかも知れませんが、何気にカーターの「陳列室の恐怖(ゾス=オムモグ)」以降の作品でも、風の三神はシュブ=ニグラスとハスターの子供とされています。シンクロニシティ

 他に、ドナルド・タイスンの『ネクロノミコン アルハザードの放浪』では、グレート・オールド・ワンの七柱の帝たちというのがいて、別口の血縁関係が設定されていたりと、まあ色々であります。
 書簡の中とはいえ、「地球人類の価値観とは無関係の、全く異質なもの」であるはずのクトゥルー神話の神々の間に、ラヴクラフトやスミスがこうした関係性を示したことについて、眉をひそめる向きもあることでしょう。
 逆に言えば、ラヴクラフトにとっては、その程度のものでしかなかったという見方も可能です。(S・T・ヨシなどの論者の主張がそうですね。彼に言わせると神々と呼ばれるあれらのクリーチャーは神秘性とは無縁の、「異星人」ということになります)
 付け加えれば、ヨグ=ソトースを概念的存在として明確に捉えたのも、レイニーの「小辞典」以降ではあります。
 それはそれとして、このあたりの関係性を全て概念的、あるいは象徴的なものと解した上で神話作品を創ることはアリだと思うのです。「アザトースとは核融合のことだ!」と1970年代に言い切ってしまったブライアン・ラムレイは、実に面白いことを考える御仁でした。

イタカの「素因数分解」

 では早速、イタカの設定をソース単位で素因数分解してみましょう。

〈風に乗りて歩むもの〉〈歩む死〉〈大いなる白き沈黙の神〉〈トーテムに徴とてなき神〉など多くの異名を持つイタカは、星間宇宙を吹く風を渡るというハスターに従属する大気の神である。

 冒頭で、イタカの異名が列挙されています。これらの異名は、以下の作品が出典です。

  • ダーレス「風に乗りて歩むもの」:〈風に乗りて歩むもの〉〈歩む死〉
  • ダーレス「イタカ」:〈大いなる白き沈黙の神〉〈トーテムに徴とてなき神〉

「風に乗りて歩むもの」はイタカの初出作品ですが、この作品ではまだイタカという名前が言及されていません。
「イタカ」は、発表時期こそ「風に乗りて歩むもの」の後になりますが、実際には「風に〜」の初期稿としてダーレスが執筆した「歩む死」に加筆した作品です。イタカがハスターに仕える風の神だと説明されるのは、こちらの「イタカ」となります。
 つまり、「風に乗りて歩むもの」の段階ではまだ、イタカはハスターの従属神とは言えないのです。

クトゥルー〈4〉 (暗黒神話大系シリーズ)

クトゥルー〈4〉 (暗黒神話大系シリーズ)

クトゥルー〈12〉 (暗黒神話大系シリーズ)

クトゥルー〈12〉 (暗黒神話大系シリーズ)

 カナダのマニトバ州に先住していたオジブワ族の間では、氷雪の夜に北部の森林地帯の奥を徘徊するという悪霊ウェンディゴとして知られている。
 この地域には、1931年に住民全員が忽然と姿を消したスティルウォーター村など、イタカに生贄を捧げ続けている崇拝者のグループが最近まで残っていたようだ。
 不運にもイタカに遭遇した人間は、鉤爪のある長い手に捕まってしまい、地球外の様々な場所を連れ回された後、最後は高所から落とされたような奇怪な凍死体として、雪の上で発見される。
 犠牲者達の死体は、行方不明となる以前に滞在していたはずのない、遠方の土地の品物を身に帯びていることが多い。

 このあたりは、「風に乗りて歩むもの」「イタカ」の物語に基づく解説です。
 ただし、オジブワ族に伝わる悪霊ウェンディゴについては、フィクションではなく現実の民間伝承が下敷きになっています。ウェンディゴについては後述します。

 難を逃れた数少ない人間の目撃段によれば、途方もない大きさの人間を恐ろしいまでに戯画化したような輪郭の影が空に現れ、あたかも眼のように見える二つの燃えるように明るい星が、濃い赤紫の光を放っていたということである。また、イタカの残した足跡からは、水掻きのようなものがついていることと、雪上をはねるようにして高速移動することが窺われる。

 イタカの姿の具体的な描写は、ダーレスの「戸口の彼方へ」でようやく行われました。

クトゥルー〈5〉 (暗黒神話大系シリーズ)

クトゥルー〈5〉 (暗黒神話大系シリーズ)

 このようにして発見される犠牲者はまだ幸せなのである。生贄となった人間の中には、イタカの似姿のような化け物に成り果て、凍った炎に足を焼かれながら森の中を永久に彷徨い続けている者もいるのだから。

 このくだりは、イタカを創造するにあたってダーレスが参考にした、怪奇小説家アルジャーノン・ブラックウッドの「ウェンディゴ」が出典です。カナダの森でイタカに魅入られた男が、焦げ付くようなやけどの痛みを両足に感じ、絶叫しながら徐々に変異していき、ついにはウェンディゴのような姿に成り果てるという物語です。
 ダーレスは「戸口の彼方へ」などの作品で、ウェンディゴをイタカの異名だと説明しました。
 なお、H・P・ラヴクラフトもまた、「ウェンディゴ」をはじめとするブラックウッド作品から多大なる影響を受けています。

ブラックウッド傑作選 (創元推理文庫 527-1)

ブラックウッド傑作選 (創元推理文庫 527-1)

 後に、ブラックウッドの描写は『クトゥルフ神話TRPG』におけるイタカの設定に取り込まれました。なお、ウェンディゴを小型のイタカとする設定も、『クトゥルフ神話TRPG』のものです。

〈小さきもの〉パク=ウーギーが棲息するというカナダ北西部のビッグ・ウッドの調査を行っていたローラ・クリスティーン・ネーデルマン教授が率いるミスカトニック大学の探検隊は、森林の中でイタカに行き会ってしまい、隊員のバーナード・エプスタインが連れ去られてしまっている。

 これは、『クトゥルフ神話TRPG』(当時は『クトゥルフの呼び声』)のソロシナリオ『ウェンディゴの挑戦』が出典です。ローラ・クリスティーン・ネーデルマンはプレイヤーキャラクター(性別選択可能)なのですが、よもや、僕が『図解 クトゥルフ神話』でこのキャラクターを引っ張り出すのと全く同時期に、このキャラクターを使う作品が登場するとは思いませんでした。ライアーソフトさんの『蒼天のセレナリア』です。
(ちなみに、ディレクター兼シナリオライター桜井光さんとはこの縁で親しくなりまして、現在は世界設定周りで協力させていただいております)

蒼天のセレナリア ザ・ガイド

蒼天のセレナリア ザ・ガイド

 イタカに関する神話は、『ネクロノミコン』や『ナコト写本』、『ルルイエ異本』などの書物に言及がある。
 また、中央アジアのチョー=チョー人によって、ロイガー、ツァールなどの風の神と共に崇拝されている。

 この部分の出典は「戸口の彼方へ」です。

 少なくとも1970年代頃までの間、イタカは旧神の結界に閉じ込められていて、北極圏の周辺と、ボレアという異世界にしか移動することができなくなっている。氷雪と永久凍土に閉ざされたボレアでは、イタカに拉致された人々とその子孫が暮らしている。イタカは、同族を増やす目的で人間の女性との間に子供を設けようと目論んでいるのだ。しかし、そうした子供たちの中の一人が反イタカ勢力の盟主となり、父神から受け継いだ風の力を使って激しい戦いを繰り広げた。

 最後の部分で、唐突にエンターテインメント指数が急上昇しました。
 これは、ブライアン・ラムレイの「タイタス・クロウ・サーガ」シリーズの第4巻、第5巻(東京創元社より刊行予定)の物語です。
 このように、イタカについてのごく短い解説だけで、7作品に及んでいます。
クトゥルー神話」は、このように形成されてきたというわけです。
 今から個々の設定を拾い集めるのは死にます!とメゲ気味の方は、『ゲームシナリオのためのクトゥルー神話事典』の方でいやになるくらい解体作業を行っております。まずはそちらをお読みいただきました上で、個々の作品を読むのが手っ取り早いかと思います。

〈風に乗りて歩むもの〉

 この記事は、ひとつ前のエントリの続きとなります。

 さて、今更申し上げるまでもなく、「クトゥルー神話」という巨大な雲の如きデータベースを構成するワードの数々も、数多の作品中に含まれる断片的な情報がなんとなく関連づけられて、蜃気楼のようにもやっとしたイメージを結んでいます。
 以下は、オーガスト・W・ダーレスの創造した神性「イタカ」についての解説です。

〈風に乗りて歩むもの〉〈歩む死〉〈大いなる白き沈黙の神〉〈トーテムに徴とてなき神〉など多くの異名を持つイタカは、星間宇宙を吹く風を渡るというハスターに従属する大気の神である。
 カナダのマニトバ州に先住していたオジブワ族の間では、氷雪の夜に北部の森林地帯の奥を徘徊するという悪霊ウェンディゴとして知られている。
 この地域には、1931年に住民全員が忽然と姿を消したスティルウォーター村など、イタカに生贄を捧げ続けている崇拝者のグループが最近まで残っていたようだ。
 不運にもイタカに遭遇した人間は、鉤爪のある長い手に捕まってしまい、地球外の様々な場所を連れ回された後、最後は高所から落とされたような奇怪な凍死体として、雪の上で発見される。
 犠牲者達の死体は、行方不明となる以前に滞在していたはずのない、遠方の土地の品物を身に帯びていることが多い。
 このようにして発見される犠牲者はまだ幸せなのである。生贄となった人間の中には、イタカの似姿のような化け物に成り果て、凍った炎に足を焼かれながら森の中を永久に彷徨い続けている者もいるのだから。
〈小さきもの〉パク=ウーギーが棲息するというカナダ北西部のビッグ・ウッドの調査を行っていたローラ・クリスティーン・ネーデルマン教授が率いるミスカトニック大学の探検隊は、森林の中でイタカに行き会ってしまい、隊員のバーナード・エプスタインが連れ去られてしまっている。
 イタカに関する神話は、『ネクロノミコン』や『ナコト写本』、『ルルイエ異本』などの書物に言及がある。
 また、中央アジアのチョー=チョー人によって、ロイガー、ツァールなどの風の神と共に崇拝されている。
 少なくとも1970年代頃までの間、イタカは旧神の結界に閉じ込められていて、北極圏の周辺と、ボレアという異世界にしか移動することができなくなっている。氷雪と永久凍土に閉ざされたボレアでは、イタカに拉致された人々とその子孫が暮らしている。イタカは、同族を増やす目的で人間の女性との間に子供を設けようと目論んでいるのだ。しかし、そうした子供たちの中の一人が反イタカ勢力の盟主となり、父神から受け継いだ風の力を使って激しい戦いを繰り広げた。
【以上の文章は、森瀬繚が書き起こしたものです。WEBサイト、刊行物などへの無断での再利用はご遠慮願います】

 拙著『図解 クトゥルフ神話』をはじめ、クトゥルー神話のガイドブックを見ると、だいたいこのような説明が載っていることと思います。言うまでもありませんが、この説明文は複数のクトゥルー神話関連作品に散らばっている設定の集合体です。そして、ここに書かれていない設定も数多く存在するのです。

アイギスを「素因数分解」する

 では、この「アイギス」にまつわる設定のひとつひとつについて、ソース単位で分割してみましょう。

 アイギスは、ギリシアの神々が用いた強力な武具である。
 主神ゼウスのシンボルであり、様々な物語に「アイギス持つゼウス」という尊称が頻繁に現れる。
 鍛冶の神ヘファイストスがゼウスにアイギスを献上し、戦女神アテナと太陽神アポロンがそれぞれ装備する。

 このあたりは、ホメーロス叙事詩イーリアス』に基づいています。
 アイギスというと戦いの女神アテナの武具という印象が強いかと思いますが、ホメーロスの作品中にはしばしば「アイギス持つゼウス」という尊称が現れるので、本来はゼウスに属しているようです。
 また、少なからぬギリシャ神話の解説書には、「ヘファイストスが造った」と書かれています。実のところ、現在確認可能な『イーリアス』の古代ギリシャ語原文では「献上した」とあるのみで、造ったとまでは書かれていません。「ヘファイストスが造った」と考えるのが自然とは思いますが、あくまでも後世の解釈のひとつです。

イリアス〈上〉 (岩波文庫)

イリアス〈上〉 (岩波文庫)

イリアス〈下〉 (岩波文庫)

イリアス〈下〉 (岩波文庫)

 ある伝説によれば、アイギスはゼウスの養母アマルテアの飼っていた山羊の皮を用いて作られた。ゼウスは、その山羊の乳で育てられたのである。そして、巨人族との戦いに勝利するためにはヤギの皮とゴルゴンの頭で身を守らねばならないという予言を受けたのだ。
 勝利の後、ゼウスは残されていたヤギの骨を皮で包んで命を与え、その姿を星で描くことによって記念した。そして、アイギスをアテナに与えたのだという。

 紀元前1世紀のローマの詩人ガイウス・ユリウス・ヒュギーヌスによる星座神話の書物、『天文詩』における「ぎょしゃ座」にまつわる記述です。いきなり数百年がすっとんでいきました。
 なお、『天文詩』のこの箇所では、アマルテアについて「ニンフ」とする伝説と、「アエクスとヘリスというゼウスの養母をつとめたニンフの飼っていたヤギ」とする伝説を併記しています。

 アイギスの形状は肩かけか上衣のようなものとも、円型の大盾とも言われている。ゼウスの雷も通じない防具であると同時に、敵に恐怖を撒き散らし、味方の士気を鼓舞する武器でもあった。

 再び、ホメーロスに戻ります。ここは、『イーリアス』の記述です。円形の大盾云々については、ゴルゴンの首が中央についた大盾を持つアテナの彫像に基づきます。

 アテナがアイギスを掲げてオデュッセウスの妻ペーネロペーの求婚者たちを恐慌に陥れたことがある。
 アテナの持つアイギスからは純金で編まれた百本の房が垂れ下がり、その縁をポボス(潰走)がとりまき、表にはエリス(争い)、アルケ(勇武)、イオケ(追撃)、そして見る者を石に変える蛇髪の怪物ゴルゴンの首がつけられていた。

 ホメーロスの『オデュッセイアー』に基づく記述です。『イーリアス』の描写と併せ読む限りでは、明らかに盾ではありませんね。
 後年、アイギスギリシア式の丸盾としてもっぱら描かれるようになったのは、『イーリアス』に登場する英雄アガメムノンが、中央にゴルゴンの首をあしらった大盾を持っていたことから、混同が生じたのだと考えられます。

ホメロス オデュッセイア〈上〉 (岩波文庫)

ホメロス オデュッセイア〈上〉 (岩波文庫)

ホメロス オデュッセイア〈下〉 (岩波文庫)

ホメロス オデュッセイア〈下〉 (岩波文庫)

 このゴルゴンの首は、英雄ペルセウスから献じられたとも、アテナ自ら退治したとも言われている。

 1〜2世紀頃の著述家アポロドーロスの『ビブリオテーケー』(岩波文庫版のタイトルは『ギリシア神話』)と、紀元前1世紀の詩人オウィディウスの『変身物語』が典拠です。どちらもローマ人ですね。

ギリシア神話 (岩波文庫)

ギリシア神話 (岩波文庫)

オウィディウス 変身物語〈上〉 (岩波文庫)

オウィディウス 変身物語〈上〉 (岩波文庫)

オウィディウス 変身物語〈下〉 (岩波文庫)

オウィディウス 変身物語〈下〉 (岩波文庫)

 さて、こうして出典を確認してみますと、アイギスにまつわる少なからぬ設定が古代ギリシャに遡ることができず、ローマ時代の著作から引用されていることがわかります。
 もちろん、文字の形になっていないだけで、口伝えで受け継がれてきた伝承があったのかも知れません。かつて存在していた書物(記録)が喪われてしまった可能性も否定できません。
 ともあれ、トマス・ブルフィンチに代表されるローマ・ギリシャ神話の再話者・解説者たちが「一続きの物語」としてギリシャ神話を紡いだ方法は、こんな具合のパッチワークだったわけです。
 僕は、こうしたやり方で神話・伝説の「設定」をソース単位で解体していくリバースエンジニアリングを、「素因数分解」と呼んでいます。

 ああ、それにしても−−ローマ・ギリシャ神話についての本を書きたいなー、と呟き続けて数年経ちました。(注:宿題多すぎてそれどころではありません)