読者への回答、あるいは新たな探求

「それは、何だかわかりますか?」

 昨日の日記でこのように出題していたわけですが、今のところブログ、Twitterともに回答なし。ちょっとしょんぼりしつつ、お約束通り「僕なりの考え」を開示します。
 そもそも、「ラブクラフトの〈クトゥルー神話〉ですね」という発言しかないのに、ここから何を読みとれるというのだろう……石森章太郎作品にクトゥルーネタが紛れ込んでいて、その頃に永井氏がアシスタントをやっていたとかそういうことか……?
 これは、メッセンジャーでやり取りしていた友人のコメントですが、実はこの短い発言こそが最重要の手がかりなのです。
 即ち−−。

 永井豪氏は、1979年夏の時点で"Cthulhu"を「クトゥルー」と発音、表記している。


 今日、「クトゥルフ」というのはTRPG発祥のゲーム文化圏に特有の読みで、原作小説から入った人間は「クトゥルー」「ク・リトル・リトル」と読む人間が多いように感じている方が少なからずいらっしゃるようです。事実、自分は創元推理文庫から入ったので「クトゥルー」派だという発言をされている方と過去にやり取りしたことがあります。
 事実はさにあらず。創元推理文庫の『ラヴクラフト全集』において、3巻以降の翻訳を担当された大瀧啓裕氏は一貫して「クルウルウ」の表記を使用されています(わずか数点の作品のみ「クトゥルー」表記を使用)。そして、最初は『ラヴクラフト傑作集』として刊行された1、2巻については−−何と「クトゥルフ」の表記が使用されていました。『ラヴクラフト全集』2巻のトップに収録されている"Call of Cthulhu"の邦題は、「クトゥルフの呼び声」(宇野利泰・訳)なのです。
 小説では「クトゥルー」表記という先入観がどのあたりから広まったのかといいますと、青心社からハードカバー/文庫で刊行された大瀧氏編集の神話作品集『クトゥルー』シリーズの影響かと思われます。大瀧氏が、東京創元社と青心社で「クルウルウ」「クトゥルー」の表記を使い分けている理由については、また別の機会に。(関連書のあとがきや解説などを隅々まで読めば、そのあたりがしっかり書いてあります)
 ハードカバー版の『クトゥルー』が刊行されたのは1981年の秋。奇しくも、ほぼ同時期に角川書店の小説誌『野生時代』において、同じく「クトゥルー」表記を作用している栗本薫氏の『魔界水滸伝』の連載が始まっています。
 1980年に作家・翻訳家の風見潤氏が朝日ソノラマ文庫において『クトゥルー・オペラ』シリーズを開始し、1984年には同レーベルにて菊地秀行氏の『妖神グルメ』が刊行されるなど、80年代前半に立て続けに「クトゥルー」表記の作品が出現しておりますので、このあたりで読み始めた方にとっては馴染み深い響きだったのかも知れません。
 さて−−ここまで書けば、はたと思い当たった方もいらっしゃることでしょう。
 1979年夏の時点で「クトゥルー神話」というワードを使用していた関連書は、片手で数えるほどしか存在しないのです!
"CTHULHU"のワードが登場するラヴクラフト作品はそう多くはありません。ここでは、「クトゥルーの呼び声」「狂気の山脈にて」「インスマスを覆う影」(執筆順)の3作品を取りあげましょう。
 話運びの都合上、まずは「狂気の山脈にて」。初訳は1978年刊行の創土社ラヴクラフト全集』第4巻(1巻と4巻を刊行したところで中断してしまった全集です)ですが、これは荒俣宏氏の翻訳なので、「ク・リトル・リトル」の表記になっています。付け加えれば、創土社版全集では解説・評論などについても「ク・リトル・リトル」で統一されています。
インスマスを覆う影」はどうでしょうか。初訳は1958年に刊行された東京創元社『世界恐怖小説全集5 怪物』で、大西尹明氏の翻訳。後に同社の『ラヴクラフト傑作集(ラヴクラフト全集)』第1巻に収録されたもので、こちらは「クトゥルフ」表記だったようです。(伝聞情報につき、要現物確認)
 この作品はその後、80年代以前に『うごく顔』『ぼくら』などの雑誌上で幾度か翻案されておりますが、そのいずれも「クトゥルー」表記を使用しておりません。
 では−−「クトゥルーの呼び声」です。
 この作品が初めて翻訳されたのは早川書房の『ミステリマガジン』。翻訳者は後に『定本ラヴクラフト全集』の翻訳に携わった矢野浩三郎氏です。1971年12月号から翌72年2月号にかけて分割掲載されたもので、ラヴクラフトを中心とする作家たちが固有名詞などを共有した架空神話体系についての解説もありました。
 この時の邦題が、実に「クトゥールーの喚び声」です。近い!
 ちょびっと違ってはおりますが、まずは「クトゥルー神話」の第一候補としてこれを掲げておきましょう。

[2011年1月30日追記]
クトゥールーの喚び声」について、目次と扉では「クトゥルー」表記になっていたという御指摘を朝松健氏よりいただきました。下のエントリで詳しく書いております。
http://d.hatena.ne.jp/molice/20110130/1296377697

 ちなみに、矢野訳の「クトゥールーの喚び声」はその後、番町書房の『世界怪奇ミステリ傑作選』(1977年)に「CTHULHUの喚び声」として、国書刊行会の『定本ラヴクラフト全集』第3巻(1984年)に「クスルウーの喚び声」として、何故か表記を変えて再録されています。
 また、この『ミステリマガジン』のすぐ後に、仁賀克雄氏の翻訳による日本最初のラヴクラフト小説作品集『暗黒の秘儀』が刊行されましたが、こちらでは「クートウリュウ」(文庫版では「クートゥリュウ」)の表記でした。
 次に「クトゥルー」が登場するのは、1972年の夏。早川書房の『S-Fマガジン』1972年9月臨時増刊号において、「クトゥルー神話大系」の最初の大がかりな特集が組まれたのです。この特集の冒頭に掲げられた団精二氏−−つまり、荒俣宏氏による解説記事こそは、日本におけるクトゥルー神話ブームの暁の鶏声と言われておりますが、何故、氏がこの時に「ク・リトル・リトル」表記を用いなかったのか……いずれお聞きしてみたいものです。
 更にもう1冊、1973年に歳月社から刊行された『幻想と怪奇』第4号を候補として提示します。この雑誌は紀田順一郎氏と荒俣宏氏の手になる幻想文学雑誌で、翌74年にかけて12冊が刊行され、それぞれの号で「魔女」「吸血鬼」といった特定のテーマにスポットをあてるあたり、後の『幻想文学』誌の構成上の参考になったのだと思われます。
 この『幻想と怪奇』第4号が「ラヴクラフトCTHULHU神話特集」で、前年の『S-Fマガジン』における特集の拡大版とも言えるものでした。特集タイトルと同様、この号に収録されているコラムや小説では一貫して「CTHULHU」「Cthulhu」という英文表記が用いられているのですが、冒頭に掲載されているリン・カーターの「クトゥルー神話の神々」(青心社版作品集にも収録されているあれです)のみ、何故か「クトゥルー」とカタカナ表記になっています。(なお、この「クトゥルー神話の神々」の翻訳が大瀧啓裕氏のプロとしての初仕事だったという話を聞いています)

 以上。1979年夏以前に「クトゥルー神話」の表記を使用し、なおかつ「複数の作家たちによる共通の世界観」であることについて解説されている関連書は、今のところ上に掲げた3冊の雑誌に絞り込まれるというわけです。
 無論、僕とてもこの世に存在する全ての書物を読了済みというわけではありませんので(そうでありたいと常々願ってはおります)、未知の「4冊目」が存在する可能性は決して低くありません。もし、そうした文献に心当たりのある方は、是非とも森瀬に耳打ちしていただければ幸いです。