詳説「ダンウィッチの怪」第1章-3

 ニューイングランド地方を背景とするラヴクラフトの小説作品は、多くの場合、その直前に彼が直接その地に足を運んだことが執筆のきっかけになっている。
 不全麻痺を患い(実際には梅毒であったようだ)、精神に異常を来たしてプロヴィデンスのバトラー病院に入院した夫ウィンフィールドを亡くした後、感受性の強い女性だったラヴクラフトの母サラもまた神経を病み、精神を病み、度重なる奇行を繰り返した後に1921年5月21日に亡くなった。
 ラヴクラフトを溺愛し、独占し、創作を含む精神活動を除く彼の私生活のあらゆる面を支配していた母が亡くなったことは(ラヴクラフトはそれでも母を深く愛していたようだ)、他人と親しく交わらず、本ばかり読んでいた天才肌の青年にようやくもたらされた〈解放〉の瞬間だった。
 彼はボストンなどの町で活動していたアマチュア文芸愛好家グループに参加し、生まれて初めて得た同好の友人たちと共に、ニューイングランド地方の各地を旅行するようになった。5年間という短い期間ではあったものの、ラヴクラフト夫人となった年上の未亡人ソニア・H・グリーンと彼が出会ったのは、まさに彼の母が亡くなったその年のことである。ナショナル・アマチュア・プレス・アソシエーションのボストン大会で知りあった彼らは、4年の交際を経て1924年3月3日に結婚した。
 ラヴクラフトがニューヨークのブルックリンに移り住んだのは、この時である。

「ひきこもりの怪奇小説作家、ラヴクラフト。彼は読者や同好の士とのひんぱんな文通以外には、ほとんど世間とかかわらずに暮らした。数回の旅行を例外として、生涯、郷里のロードアイランド州プロヴィデンスから離れることもなかった。」
−−『よくわかる「世界の怪人」事典』(廣済堂文庫)より


 などと書かれることの多いラヴクラフトだが、このニューヨーク時代も含め、頻繁に旅行している。このあたりについては、現時点では竹岡啓氏(id:Nephren-Ka)の日記が参考になる。

参考:ラヴクラフトの旅行(凡々ブログ)
http://d.hatena.ne.jp/Nephren-Ka/20091101

 母の生前にも、ラヴクラフトはダンセイニ卿の講演を聞くべく、ボストンまで足をのばしている。同じニューイングランド地方とはいえ、高速な交通手段のなかった時代に、曲がりなりにも隣の州へ出かけることは、小旅行と言っても良かっただろう。
 以後、彼は生涯に渡って頻繁に旅行に出かけた。その多くは、文筆活動を通じて知り合った友人を訪問することが目的だったが、ラヴクラフトは旅先で友人宅に引きこもっていたというわけではなく、精力的に滞在地の近隣の土地をめぐり、親類や友人に宛てた手紙や、旅行記録の中で旅行中に見聞きしたことを熱心に書き記した。
 彼がニューイングランド地方の歴史や伝説について本格的に調査するようになったのは、妻と別居した彼がプロヴィデンスに〈帰還〉して以降のことだが、それ以前からこうした旅行を通じて様々な土地についての見聞を深め、後年、アーカム物語群として花開いたのである。
 1923年10月頃に執筆したと思われる「魔宴」の舞台となったのはキングスポートという架空の町だったが、この町はマサチューセッツ州の実在の港町、マーブルヘッドをモチーフとしている。その前年の12月14日に、ラヴクラフトはマーブルヘッドを訪れている。ラヴクラフトは、夕暮れのマーブルヘッドに心を奪われた。マーブルヘッドは丘のようになっている町なので、坂の上から密集した屋根を一望することができたのである。
 彼は1930年3月12日付のジェームズ・ファーディナンドモートン宛ての手紙の中で、屋根に降り積もった白い雪が「狂気じみた夕焼け」に染まっていく光景から、「ある啓示と暗示を受け、宇宙と一体化することができた」と述懐している。
 この経験から生まれたのがキングスポートという町なのだ。これぞ、英国王の港−−そのような思いを込めたのだろう。翌年の4月にもラヴクラフトはマーブルヘッドを訪れ、この時には、セイラムやニューベリーポートといった、マサチューセッツ州東海岸沿いの古い町を巡り歩いたという。先行する「家のなかの絵」「死体蘇生者ハーバート・ウェスト」で既にアーカムという町をこしらえていたとはいえ、実質的にはこのキングスポートこそが最初のラヴクラフト・カントリーの町と言えるかも知れない。
 なお、「インスマウスの影」が執筆されたのは1931年の11月から12月にかけてのことだが、ラヴクラフトはその直前に、ニューベリーポートを再訪している。この寂れた田舎町(当時)こそが、影横たわるインスマスのモチーフとなったのである。(注5)
 旅行と創作のあからさまな関連性は、ラヴクラフトの単純さというよりも、ラヴクラフト・カントリーにまつわる小説作品−−アーカム物語群の執筆は、彼にとって郷土愛の発露であると同時に、旅行記を兼ねていたのである。
「ダンウィッチの怪」の場合も、事情は全く同じだった。
 この作品が執筆された1928年、彼は実に頻繁に旅行を繰り返している。
 とりわけ関係が深いと思われるのは、友人ジェームズ・F・モートン−−「クトゥルーの呼び声」に登場する鉱物博物館長のモデル−−をニュージャージー州パターソンに訪ね、スプリングバレーやスリーピー・ホローを経由して帰還した5月の旅行。
 後に「闇に囁くもの」の舞台となるヴァーモント州に滞在した後、マサチューセッツ州北部中央のアソールにウィリアム・ポール・クックを訪ねた6月の旅行。
 同じ6月の後半には、ボストンのアマチュア文芸愛好家グループで知識ばかり蓄えた世間知らずの青年(ラヴクラフト)の面倒を何くれと見てくれたイーディス・ミニター夫人−−ラヴクラフトは、この女性のことを賞賛の念を込めて「偉大なアマチュア」と呼んでいた−−の招きで、マサチューセッツ州西部の田舎町ウィルブラハムへと足を運び、ここに2週間に渡って滞在している。
 このウィルブラハムこそが、ダンウィッチの重要なモチーフなのである。

「舞台はミスカトニック渓谷の奥−−アーカムのずっとずっと西の方です」
−−『定本ラヴクラフト全集』9巻(国書刊行会)より


 ラヴクラフトは前述のモートンに宛てた、「ダンウィッチの怪」と題する新作について触れた1928年6月の手紙の中で(文面から、この書簡は彼が6月中の2つの旅行−−その内1つは、他ならぬモートンを訪ねる旅だ−−を終えた後に書かれたものと推測される)、このように書いている。
 この時点で、既にアーカムのモチーフとして実在のセイラムが想定されていたことについては、前項で既に書いた通り。そして、ウィルブラハムはセイラムのずっと西にある町なのだ。ここでラヴクラフトが述べているダンウィッチの位置は、間違いなくウィルブラハムを意識したものだろう。
 しかし。実際に完成した「ダンウィッチの怪」の−−よりによって冒頭を、ラヴクラフトはこんな文面で書きだしてしまったのだ。

マサチューセッツの北部中央を旅する者が、ディーンズ・コーナーズをすこしすぎたアイルズベリイ街道の分かれ道で、つい誤った道を進むと、うらわびしい一風変わった土地に入りこんでしまう」
−−大瀧啓裕・訳「ダンウィッチの怪」より、『ラヴクラフト全集』5巻(東京創元社)収録


 これほどまでにはっきりした記述にも関わらず、やはりマサチューセッツ州の西部に位置しているのではないかと思わされる記述も作中に散見されるのだ。
 ダンウィッチは、一体どこにあるのだろうか−−。
 ラヴクラフトと友人たちの間で取り交わされた数々の書簡に目を通す術を持つはずもなかった初期の読者たちにとって、ダンウィッチの位置を巡る問題は長らく難題としてのしかかっていたことだろう。
 この謎を解く鍵は、ラヴクラフトの旅行にあった。
 ニューハンプシャー州との州境に近い、マサチューセッツ北部の丁度中心に、アソール−−ウィルブラハム行きの少し前、ラヴクラフトが訪れた友人ウィリアム・ポール・クックが住むアソールの町が位置しているのだ。
 ここから先については、シンプルな答え合わせとなる。アソールとウィルブラハムからの直接的影響については、「ダンウィッチの怪」についての優れた論考を幾つも著したドナルド・R・バールスンが、ペンペン草も生えないほどに話の種を掘り尽くした後なので、本稿では以下にその一部を箇条書きで概要を示す。
 興味のある方は、『定本ラヴクラフト全集』9巻(国書刊行会)に収録されているバールスンの「恐怖の陰に潜むユーモア」を参照されたい。

アソール由来の事項:

  • センチネル・ヒル - ウェスト・ヒルの重畳にあったセンチネル・エルム・ファーム(名称を拝借)
  • 熊の穴 - アソールの北、ノース・ニューセイラムのベアーズデン(熊の穴)
  • フィーラー、ファー、フライ、ビショップ、ホートン、ライス、モーガン - アソールの名家

ウィルブラハム由来の事項:

  • 人の死に際して魂を奪いに来る夜鷹の伝承 - ミニター夫人の友人、エヴァノア・ビービの家に伝わっていた地元の伝承
  • センティネル・ヒル - ウィルブラハム山(外見)
  • チョーンシィ(サリー・ソーヤーの息子) - ミニター夫人の家の使用人


 この他にも、アソールやウィルブラハムについてラヴクラフトが友人に書き送った手紙の記述が、ほぼそのままの形で反映された記述が、「ダンウィッチの怪」には多々見つかっている。例えば、ラヴクラフトリリアン・D・クラークに書き送った1928年7月1日付の手紙の中で、彼はウィルブラハムから受けた印象をこのように語っている。

「住民たちは完全にはっきりと分かれています−−庶民が衰退の一途を辿る一方で、良家の人々は古きよき伝統を維持しているのです」(森瀬繚・訳)

 そして、この文面とほぼそっくり同じ内容の文章を「ダンウィッチの怪」の中に見つけることができる。

「一六九二年にセイレムからやってきた、紋章をつける資格をもつ二、三の家を代表する古い家系の者たちは、どうにかあまねく広まる衰退をまぬかれてはいるものの、多くの分家はあさましい住民のなかに埋没して、その名前だけが自らを辱めている家柄を示すただ一つの鍵にすぎなくなってしまっている」
−−大瀧啓裕・訳「ダンウィッチの怪」より、『ラヴクラフト全集』5巻(東京創元社)収録


 なお、物語中で夜鷹と共にダンウィッチ近隣の土地の不気味なたたずまいを大いに強調している蛍の乱舞は、ラヴクラフトが滞在中に実際にウィルブラハムで見られたものだ。かつて見られたことのない規模の、空前の数の蛍が平原といい、森の中といいあでやかに光を放ちながら飛び回る様を、ラヴクラフトは"witch-fire"−−魔女の炎と表現している。
 ダンウィッチという町は、アーカムプロヴィデンスとセイラムの合成であったのと同様、アソールとウィルブラハム−−そしてモンソン、ハンプデンなどの近隣の町の地理と、ラヴクラフトがそれらの町から受けた印象から生まれたのである。「ダンウィッチの怪」以後に書かれた作品の記述を尊重するならば、「北部中央」という記述はこの際スルーすることにした方が無難だろう。
 虚構と現実が混ざり合ったこうした作品を愉しむにあたり、時系列とか地理上の錯綜とかいった矛盾点に、そこから新しい〈事実〉を引っ張り出す以外の目的で拘泥してはいけない。シャーロック・ホームズの物語の〈作者〉であるコナン・ドイルと、シャーロック・ホームズの事件簿の〈記録者〉であるジョン・H・ワトソンが、同時期のロンドンに併存したところで、カケラも問題はないのである。要は、心の中に複数の時系列と、複数の因果律を共存させることだ。ヨグ=ソトースへと至る道は、まずはその一にして全の鍵を手に入れることから始まるのである。
 話を戻そう−−なお、筆者が2005年に手掛けた『図解 クトゥルフ神話』(新紀元社)には、アーカムやダンウィッチ、インスマスの位置を示す地図を掲載している。これらの地図は、ラヴクラフトの小説や書簡の記述のみならず、オーガスト・W・ダーレスはじめ他のクトゥルー神話作家たちの作品において言及されるラヴクラフト・カントリーの位置を示す情報を抽出し、整理し、比較し、検討した果てに到達した成果である。
 中でも、ダンウィッチの位置情報を含む地図を作製するにあたって、最終的に参考にしたのはChaosium社のテーブルトークRPGクトゥルフ神話TRPG(旧名・クトゥルフの呼び声)』のソースブックのひとつ、"H.P,Lovecraft's DUNWICH"だった。単に綺麗な地図が載っていたからというわけではなく、このソースブック掲載の地図に示された各土地の位置関係が、実に理に適っていたからだ。
 マサチューセッツ州に実在している、アーカムやキングスポート、インスマス、ダンウィッチのモチーフとなった町の位置関係については、下の地図を参照されたい。(注6)

インスマスを覆う影」の記述を信じるならば、アーカムはセイラムよりも北、ニューベリーポートよりも南に位置する。この町からミスカトニック河がゆるやかに蛇行しながら西へのびて行き、その南側によりそうようにアイルズベリー街道が続く。そして、その先の先、標識の取り払われた分岐点の先−−地理的にはおそらく、ウィルブラハムの北北西方向−−に、今となってはその名前の口にされることは滅多にな……くは全然ないのがアレだけれど、まあないことになっているダンウィッチの町があるのだ。

注5 PHP研究所から刊行されているコミック版『インスマウスの影』の解説文中で、インスマスの位置関係などについては詳説済みである。なお、インスマスという地名そのものはラヴクラフト1920年に執筆した「セレファイス」が初出であり、当初は英国のコーンウォール地方に位置する村として設定されていた。

注6 筆者は、2008年の夏にニューイングランド地方に2週間に渡って滞在し、これらの町を実際に訪れている。この詳説を増補する際には、写真資料や見聞録を追記する予定だ。なお、残念ながらアソールには行きそびれてしまったので、いずれ改めて足を運びたいものである。