詳説「ダンウィッチの怪」第1章-4

 さて、我々はかくの如くにして、ダンウィッチの地理上の位置をある程度特定することができた。この先に進む前に、最後に残された問題−−「ダンウィッチ」という名前について、解決しておかねばならないだろう。
 ラヴクラフトが「ダンウィッチ」という地名をどこから捻りだしてきたのかについては、古くから定説とされている先行作品がある。
 19世紀英国の詩人アルジャーノン・チャールズ・スウィンバーンが1880年に発表した、"By the North Sea(北海)"だ。スウィンバーンのこの詩は、英国の東岸、サフォーク州沿岸の都市ダンウィッチを題材にした作品なのである。
 ダンウィッチはブライス川とダンウィッチ川の河口の町で、かつてこの地方で勃興したイースト・アングリア王国の中心的な都市として繁栄した。
 イースト・アングリア王国自体の興亡とは無関係に、13世紀以後、このダンウィッチは衰退の一途を辿った。1286年頃から海岸線の浸食が始まり、19世紀にはついに町の全てが海に沈んでしまったのである。
 ブルターニュ地方に伝わる水没都市、イスにまつわる伝説が、ヴィクトール・アントワーヌ・エドゥアール・ラロや、クロード・ドビュッシーら音楽家たちに霊感を与えたのと同様、その殆どが海に沈み、神殿を思わせる瓦礫の山が残されたダンウィッチもまた、スウィンバーンはじめ詩人や作家の題材となったのだ。
 そして、"A land that is lonelier than ruin, A sea that is stranger than death(滅びよりも孤独なる陸地 死よりも奇異なる海)"という語りかけから始まるこの詩の影響により、ラヴクラフトもまたニューイングランドの衰退した町と、その住民たちの運命を仮託して、「ダンウィッチ」という名前を与えたのだ−−というのが、ダンウィッチの地名にまつわる有名な説である。
 しかし、ここに一つだけ重大な−−しかも今となっては解決不能な問題が残されている。ラヴクラフトは、スウィンバーンの"By the North Sea"が、喪われたダンウィッチにまつわる作品であることを、はたして−−「ダンウィッチの怪」の執筆以前に知っていたのだろうか?
 事実関係を整理してみよう。

Q) ラヴクラフトは、"By the North Sea"を読んだことがあっただろうか?
A) その通り。確かに彼は、その詩を読んだことがあった。


Q) じゃあ、ラヴクラフトはダンウィッチの地名をこの詩から引っ張り出したんだね?
A) さあ、それについては何とも言えない。


 S・T・ヨシが作成したラヴクラフトの蔵書録並びに読書歴の詳細な記録、"Lovecraft's Library: A Catalogue"によれば、ラヴクラフトが持っていたスウィンバーンの詩集はただ1冊。1919年にニューヨークのモダン・ライブラリー社(後にランダムハウス社によって買収)から刊行された"Poems(詩集)"で、この本には確かに"By the North Sea"が収録されている。
 但し−−と、ヨシは指摘する。この"Poems"には、ただの1回も'Dunwich'の語が現れないのである! 幸い、問題の1919年版"Poems"のリプリント版の全文をWEB上で調べることができたので(何という便利かつ恐ろしい時代!)、筆者も隅々まで確認してみたのだが−−確かに、この詩集にはただの1度も「ダンウィッチ」の語が現れないのだ。
 ここから、筆者の(いつもの)地獄が始まったのである。
 筆者が調べることができた範囲で、"By the North Sea"についての批評が最初に現れたのは、1880年の7月から12月にかけて発表された文学作品を対象とする"The literary world"の第22号だ。

"In two poems of considerable length.one entitled "Off Shore," the other "By the North Sea," Mr. Swinburne treats largely of the sea as a force eating away the land, and blends with this treatment a vague suggestion of sunworship or exaltation of the old cult of Hyperion and Apollo.(一方は"Off Shore"、もう一方は"By the North Sea"と題するかなり長めの2つの詩において、スウィンバーン氏が主に謳っているのは、陸地を浸食する力としての海である。そこに混交させる形で太陽崇拝、即ち往古のハイペリオンやアポロの信仰の称揚がおぼろげに示唆されているのだ。)"


 この評を見る限りは、海岸の浸食を受けている石造りの廃虚は、グレコ・ローマンの神殿と結び付けられたように思われ、そこにはダンウィッチという実在の場所についての情報は一切含まれない。
"By the North Sea"に関連して、ダンウィッチという語が最初に現れるのは、1887年にChatto & Windusから刊行されたスウィンバーンの"Selected poems(詩選集)"である。
 この詩集の中で、合計7節から成る"By the North Sea"は何故か3つの別々の詩に分割掲載された。1〜2節が"BY THE NORTH SEA"、3〜5節が"IN THE SALT MARSHES"。
 そして、6〜7節につけられたタイトルが、"DUNWICH"だったのである。
 この頃になると、"By the North Sea"が海に呑まれつつあるダンウィッチの廃虚を題材にした詩だということが、文藝の世界では知られ始めていた。
 しかし、「ダンウィッチの怪」が執筆された1928年8月以前に、彼が"By the North Sea"とダンウィッチの関係を知っていたという確証は全くない上、"Lovecraft's Library"に掲載されている1000冊近い書物の中に、そのことについて触れた本は1冊も存在しないらしいのだ。(ヨシの調査とは別に、筆者も独自に調査を行った)
 また、ラヴクラフトは、1929年3月8日付の詩人エリザベス・トルドリッジ宛の書簡において、スウィンバーンの詩は初期の方が魅力的だった語っている。"By the North Sea"は、スウィンバーン爛熟期の詩作であり、初期のものとは言えないだろう。
 確かに、スウィンバーンの"By the North Sea"に漂う退廃的な魅力は否定しがたく、ラヴクラフトが「ダンウィッチ」という地名をここから採ったのだと考えたくなってしまう。しかしながら、傍証すら得られない以上、これを前提に論を組み立てることはできない−−これが、「ダンウィッチ=スウィンバーン起源」説についての筆者の考えである。
 とはいえ、スウィンバーンの"By the North Sea"は、確かにラヴクラフト作品に大きな影響を与えているように思える。S・T・ヨシも指摘していることだが、この詩に謳われる廃町の様子は、ダンウィッチというよりもむしろインスマスの印象に近いものだ。 ラヴクラフトは、ニューイングランド沖の荒涼たる島々に棲みつく地球外生物についての物語−−言うまでもなく、「インスマスを覆う影」である−−にまつわる構想に、1928年頃からとりかかっている。トルドリッジ宛ての手紙にスウィンバーンの名前が現れたのが、その前後で"Poems"を読んだことがきっかけになったのであれば、この詩はむしろ後の「インスマスを覆う影」の方にこそ影響を与えたのかも知れない。
 なお、インスマスの名家であるマーシュ家の由来は湿地帯を意味する英語の'marsh'と思われるのだが、この語は"By the North Sea"に含まれているのだ。
 それ以上に−−筆者にはひとつ、仮説とすら言えない考えがある。妄想に近いと言っても良い。しかし、もしそれが事実だったなら−−そう考えるだけで、心が湧きたってくる。

"A land that is lonelier than ruin(滅びよりも孤独なる陸地)
A sea that is stranger than death(死よりも奇異なる海)"


"By the North Sea"の冒頭に掲げられた二行連句から、筆者はどうにも別の二行連句のことが思い出されてならないのだ。即ち−−。

"That is not dead which can eternal lie,(永久に横たわれるものは死せずして)
And with strange aeons even death may die.(奇異なる永劫のもとには死すら死滅せん)"


 今となっては、回答は存在しない。解釈は読者諸兄諸姉に委ねることにしよう。
 さて、「ダンウィッチ=スウィンバーン起源」説を退けてしまったところで(否定したわけではないことに注意)、「ダンウィッチ」という地名について、別の起源を提示しなければならないだろう。
 この点については、スウィンバーンの件よりもはっきりとした、疑いようのない明確な根拠の伴う回答を用意することができる。H・P・ラヴクラフトが平素よりその熱心な愛読者であることを公言し、あまつさえ「ダンウィッチの怪」においてその作品名すら掲げている英国の怪奇作家、アーサー・マッケンが1917年に発表した「恐怖」という中篇がそれである。
 第一次世界大戦の最中−−ウェールズの西に位置するという、作中ではメリオンと仮称される寂れた村で、一人の少女が行方不明となった。その事件を皮切りに、メリオンの周辺地域で、次々と不可解な殺人が起きるようになる。ドイツ軍のスパイだと主張する者もいたが確たる証拠は何もなく、実際に目撃されたものと言えば、そこにあるはずのない大木の影と、その枝の間に満たされたギラギラと輝く謎めいた光−−。
 この小説のちょうど真ん中あたりに、だしぬけにこのようなセリフが登場するのである。

「そういえば、このところ、妙な話が行われていましてね。ミドリングハムの在方のほうに向いた側、つまり、ダンウイッチに向いた側の雨戸やカーテンは締めておけというんですな」
−−アーサー・マッケン「恐怖」より、『アーサー・マッケン作品集成III 恐怖』(沖積舎)収録


 ダンウィッチという地名が登場するのはこのシーンだけで、作中の描写からは果たしてサフォーク州のダンウィッチのことを指しているのかどうかすらわからない。ともあれ、「ダンウィッチの怪」後半の事件を彷彿とさせる騒動の最中、作中登場人物の口から、ダンウィッチと呼ばれる場所に何らかの不吉なものが潜むことが暗示される−−これは実に示唆的なシーンである。
 無論、ラヴクラフトは「ダンウィッチの怪」を執筆する以前に、マッケンの「恐怖」を読んでいた。そして、このダンウィッチという地名から、ロードアイランド州のグリニッチ(注7)、マサチューセッツ州イプスウィッチを連鎖したに違いない。
 このイプスウィッチは、「インスマスを覆う影」においても言及されているマサチューセッツ州東部の町で、実在のダンウィッチが位置するサフォーク州の現在の州都が、BBCの「空飛ぶモンティ・パイソン」に関連して持ち出したイプスウィッチなのだ。そして、イプスウィッチは、アーカムの近くにある町として設定されているボルトンの近くにある−−。
 ラヴクラフトがかつてインスマスという地名を創造した時、インスマスの位置はニューイングランド地方であるどころか、英国のコーンウォール地方に設定されていた。
 このため筆者は以前、インスマスのモチーフを英国のプリマス、あるいはファルマスではないかと論考した。「-マス」というのは、河口の町につけられる地名なのである。そして、プリマスもファルマスも共に、マサチューセッツ州にも存在しているのだ。(注8)
 マッケンの「恐怖」を読んだラヴクラフトは、ダンウィチという地名がイギリスのサフォーク州にあり、同時にまたイプスウィッチという彼のよく知る町と同名の都市がこの州の州都であることを調べて知ったのかも知れない。
 イプスウィッチが両国にあるのだから、ダンウィッチが両国にあっても何ら差しさわりはないだろう。加えて「-ウィッチ」という語尾は、彼がアーカム物語群を構築するにあたり、その基底に横たわるものとひそかに設定の根を広げていたセイラムの魔女裁判を思い出させる。気にいった!−−たぶん、そんなところだったのではないかと筆者は想像するのだ。
 ちなみに、ダンウィッチと共に新たに提示されたラヴクラフト・カントリーの地名、アイルズベリー(エールズベリー)もまた、英国のバッキンガムシャー州に実在する地名である。この地名を引っ張り出した理由は、マサチューセッツ州東部のエームズベリーという町(セイラムのすぐ近くにある)からの連想だろうと思われる。
 ダンウィッチという町に実体を与えることができた今、ようやく筆者はこれを言うことができる。ダンウィッチへようこそ! 伝統と退廃と宇宙的恐怖が、諸君を歓迎する。
 続く第2章では、「ダンウィッチの怪」の物語が詳説対象となる。この作品に多大なる影響を与えた−−というよりも、ラヴクラフトが元ネタとして用いた先行作品の数々−−とりわけ、第1章でも紹介した「恐怖」を含むアーサー・マッケンの諸作品について解説する予定である。
 読者諸兄諸姉に贈る言葉はただ一つ。予定は未定、決定に非ず。

注7 ロンドンのグリニッジに由来する地名。'Greenwich'と綴る。なお、同じ地名がマサチューセッツ州内にも存在しているが、こちらはグリーンウィッチと発音するようだ。

注8 インスマスの位置情報やその地名の由来については、PHP研究所のコミック版『インスマウスの影』の解説中で詳説した。