東海岸のモンスター

(本稿は、コミックマーケット78にて刊行した森瀬の個人サークル誌『夏冬至点』2010年夏号掲載コラムの再掲です。本来、PHP研究所のコミック『インスマウスの影』に寄稿した解説文に含める予定だったものの、ページ数の都合で割愛したテーマを扱ったものとなります。)

 H・P・ラヴクラフトが「インスマスを覆う影」を執筆するにあたり、マサチューセッツ州北東沿岸に存在する大西洋に面した海辺の町、ニューベリーポートとグロスターをモチーフにしたことはよく知られている。「インスマスを覆う影」の舞台となるインスマスについて作中で書かれてた通り、かつて造船業で賑わったニューベリーポートは、ラヴクラフトが2度目にこの町を訪れた1931年の秋頃には廃業した工場の立ち並ぶ寂れた町となっていたようだ。
 ニューベリーポートからラヴクラフトの住むロードアイランド州プロヴィデンスまでは、電車と車で数時間ほどの、ごく近い距離である。
 ある意味で目と鼻の先と言っても良い土地に、彼は外宇宙からやってきた侵入者の前哨基地を配置したわけだが−−そもそも、マサチューセッツ州北部からメイン州南部にかけての東海岸沿いの地域は、海の怪物にまつわる伝説が根付いた土地でもあった。
 ピルグリムファーザーズが大西洋を渡ってこの地に植民地を建設して以来、このあたりでは大海蛇(シーサーペント)が幾度も目撃されてきたのである。
 大海蛇にまつわる最初の記録は、17世紀にまで遡る。まだマサチューセッツ植民地が大英帝国支配下にあった1638年、ジョン・ジョスリンという人物がグロスター湾にあるケープ・アン(アン女王の名前にちなんだ岬)にある岩の上で、とぐろを巻いた大海蛇が目撃されたという記録を残している。このケープ・アンは、ラヴクラフトが「魔宴」「霧の高みの不思議な家」などの作品の舞台とした架空の町、キングスポート(町のモチーフはやはり東海岸沿いの港町マーブルヘッド)で描かれる、荒涼とした岬のモデルとなった場所である。
 ニューイングランドの大海蛇については、18世紀以後も目撃が続いている。『セイラム・ギャゼット』紙に掲載された1793年8月3日付の記事に、メイン州のマウント・デザート島から10リーグほどの沖で、突然、巨大な大海蛇を目撃したというクラブトリー船長の目撃談が掲載されている。水上6フィートか8フィートほどの位置に頭をあげたその大海蛇は、首回りの太さがおよそ1バレル。体の色は焦茶色で、少なく見積もっても体長55から60フィートはあったということである。


1817年にグロスター湾で目撃された大海蛇

 1817〜1819年(記録にブレがある)には、再びグロスター湾で大海蛇が目撃された。近隣に住んでいる数百人の人々が同時に大海蛇を目撃したというから、ただごとではない。この時、怪物はグロスター湾だけでなく、少し南にあるナハント湾にもたびたび出没したようである。ナハントというのは、海岸保養地として知られるマサチューセッツ州の小さな島のような場所だ。位置的には、ラヴクラフトが創造したキングスポートのモチーフであるマーブルヘッドとボストンの中間にある。
 当然ながら、マサチューセッツ州の沿岸地域は大海蛇の話題でもちきりとなった。
 その後、暴れまわるわけでもなければ商船を襲ったりするでもない大海蛇の様子から、どうやらおとなしい性質だという話が広まると、早速報奨金がかけられた。ナハントでも屈強の捕鯨船員たちが怪物の拿捕に乗り出したが、魔法の力で守られているのだろうか−−結局、大海蛇に傷ひとつつけられなかったという。
 ナハントの年代記によれば、大海蛇の体は七十四門艦のメインマストほどの長さがあり、その頭部は長い毛に覆われていたという。
 クトゥルー神話の読者としては、この「毛」というのは触手のことだったのではないかと妄想してしまいそうになる話だが、ここは字義通りに解するべきだろう。
 なお、この時の目撃談には、ある英国人がこの怪物に発砲しようとしたところ、災いをもたらすということで先住民に止められたということだ。先住民は、海岸に度々現れる大海蛇のことを知っていたのだろうか−−。